誰だって絶望する事は度々あり得ることである。カフカは絶望の中にも意味がある、いや希望もある、と主張するものである。彼の人生はまるで凸凹の階段のようで曲がりくねって到底目的地にはつけないと言うようなものであった。彼はそれを逆手にとって小説を書こうとした。彼の死後に、その小説は友人の力で残され広く世に問われることになる。ただ友人が彼の小説を12年間以上出版社に持ち回りやっとのことで日の目を見たと言うことであった。その友人も小説家であった。友人の小説はいっとき人気があったのだが最終的にはわすれられてしまった。
一方カフカの小説のほうは認められ有名になっていった。皮肉なことである。カフカは、自分の書いた原稿を破棄することを望んでいたのである。最後のほうの作品としては断食芸人がある。
この断食芸人のようにカフカも食べるものが普通の人のように食べれずとても痩せていた。
おやつとかの甘いものも彼の体には負担が大きかった。断食芸人のように霞か夢を食べていたかったのではないか。彼は生きることを拒否しながら生きていく。
彼の生きる場所は小説の中であり、現実の世界は、ただそれを支えている壁のようなものだったのかもしれない。いや、しれないと私が勝手に考えただけだ。
ポジティブに考えることに常に嫌悪すら感じていたカフカ。どこにも馴染めず、特に子供の頃から学校から拒否されたことは、カフカの心に大きな釘が刺さったように辛いことであった。これは社会から人間として葬られたということであり、重大な災難である。死刑宣告と同じ。このことから、カフカは、二度と再び、社会と足並みをそろえることを強く拒否したはずである。
小学校の時から、劣等生のラベルを貼られることになる。だが、何かと賢かったカフカに対して母親は実はカフカの能力を疑わず信じていたに違いない。だが学校から得られた評価はとても低いものであり落第するかもしれないと言うような具合であった。母親は心配してカフカを転校させる。そうすれば本当の実力が出せるかもしれないと母親は思ったのだった。しかしその学校でも前と同じ評価を出されたのである。このような事は両親を失望させた。特に父親からはカフカは全く理解されない子供であった。大きくなってからも、勤めより小説を重視しつづけた。両親のこと、学校の馬鹿げた評価などが、カフカを強くした原動力になったのではないか。
つまり親と子の断絶と言うのは昔からどの国でも、よくあったことであり、自分だけが苦しんでいると言うわけでは無いのだ。親のために親のせいで自分がこんなになってしまったと言っていながらヒキコモっている若者は大変多いだろう。彼らの心理はどういうものなのか。いまだにコンタクトも取れず、明らかにもされていない。
ただカフカの「変身」のザムザが、その心境の片鱗を語っているのみである。
引きこもりの研究は進んでいるのであろうか。公に発表はない。統合失調症、うつ病、それらの病理とは違う範疇なのだろうか。
カフカは健康にもよく注意して生活していたのだが、結局健康オタクは健康にはなれぬものであり、結核に罹り、重症になってゆく。
だが骨折りの人生に彼はきっと感謝したことだと、わたしは思うものだ。