スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

「母と子」という病 2016年  高橋和巳(かずみ)著

世の中には、母があり、子があり、という中で、子が病んで、親を苦しめるというのが、テーマである。

不登校、拒食過食症など、子供たちに変化が現れた時、親たちは慌てふためく。だがそうなるには、

母と子の間でいろいろなことが基本にあったと言う事を見極めねばならない。

学校にうまく馴染めず行かなくなってしまう子供たち、どんどん痩せていく子供たち、彼らは何を求め何をしたいのか、彼らに一体いかなる未来が待っているのか。

彼らがそうなってしまった背景には必ず母と子の愛着障害と言う問題があると言う。

ただ各々の環境というものにも大きく左右されていると、私は思うが。

 

 

健全な母親は子供に向き合い、必死になって子供を育てていく。だが一方で、子供に対して責任を感じず

無責任なままで子供に真面目に向き合わない母親たちもいる。後者は、つまり本人たちも、まだ子供のままで未熟なのである。だから子供のことをよく見ておらず観察もせず場当たり的な見方をして人ごとのような顔している。

その無責任さが子供からすれば本当に腹立たしいことであり、子供から見ればあってはならない態度なのである。いつもはぐらかされてきた子供たち。子供たちのことを一生懸命見てきたといっても何かしら方向間違いしていたり、そういうことが多いのである。

 

こういう母親に育てられてしまった子供は社会に出てからも対人関係で大きくつまずき自分の問題を全く解決できないでいる。赤ちゃんのときにはもちろん世話をしていたのではあるが大きくなったら精神的にほったらかしである。あなたの問題だからあなたの自由にしなさい。自分で考えて解決するべきよなどと言っては逃げているのである。というより、無関心ということもあり得る。

 

母親は、大人の見かけはしているが、心は子供であり、自己中心的である。

親と子の関係は2、3歳までに、その基本は出来上がり、それが、一生続くという。えらいこっちゃ!

 

ある拒食の女の子は、お母さんのことを、「ご飯を作ってくれて育ててくれたから良い人です。」と言っている。

ご飯なんて、まあ当たり前の、普通のことではないか。彼女は、それ以外に母の良いところを見つけられなかったのだ。貧しい母娘のふれあいであった。

 

こういう母娘には、健常な親子の感覚というものは、とても理解できるものではないのだ。

なぜ健常な彼らが、物怖じせずに、社会に出て生きてゆけるのか。前者の母にも子にも、彼らのことは 遠すぎて分からないのだ。

小さいことに見えていた問題は、思春期になって大きな躓きとなって家族に被さってゆく。

自己中心な母、子供の必死な訴えにも、気がつかぬ心オンチの母。

カウンセラーが、子供のことを聞いている間も、いつのまにか自分の経歴をひけらかしたり、主人の愚痴を言ったりしている時間の方が長いのである。問題の子供のことは、少しだけしか話さないという。

 

友達のような母親、一緒にラインゲームに興じたりショッピングしたりするのか。楽しそうである。

これも母親の精神年齢は低く子供親である。子供が問題を起こした場合には、受け止めることはできずに、問題から逃げ出してしまう。子供は、そんな親に、がっくりときて、心にも、傷ができる。

突然裏切られて、見捨てられたような気持ちを抱くのだろう。一見味方のような友人型母親、これも、大層困りものである。

 

いずれにしても、一人の人間が、大人になるということは、大変なことである。

健常者の母と子は、思春期の問題も、危険な火事にはならず、うまく切り抜けながら、子供は大人になってゆく。

 

この一冊の本により、私は大きな利益を得た。今まで悩んできた問題が、一気に解けたのである。

これは、初めてのことであり、未来的心理学の幕開けだと思った!

私自身が、子供親であり、私の母も、私と同じく全くの子供母であった。教師をしていた母であったが、突然辞めている。

私の悩みは深く、誰に相談しても、親を困らせている私が悪いと言われたのだが、実は、母の素っ頓狂な言葉とか、態度を思い返してみても胸が悪くなるほど子供じみた検討外れのものであった。

 

私の場合、生まれた環境というものが、大きいと思う時もある。

 

 

 

「母と子」という病 (ちくま新書1226)

「母と子」という病 (ちくま新書1226)