なぜパリが遠くなるのか、
は見てのお楽しみであるが、好きで勝手に、遠くに行くのではない。
この場合、無理やりパリから遠ざけられてしまう主人公達ということだ。
主人公達、たち、といったのはユダヤ人の集団のことである。
パリの市中でも、すでに、ユダヤ狩りが始まっていた。
ドロンは、そんなユダヤ人が手放した絵画を安く買って売りさばいていたのだった。
そんなバチが当たったのか、同姓同名のユダヤ人と間違われて、ユダヤ狩りにあってしまう。
同姓の男を探し歩くも、どうしても見つからず、とうとう大きなバスで、つぎに汽車に乗せられて、パリからどんどと遠く、ドイツ、そしてポーランドのアウシュビッツへと送られて行くのであった。
まるで家畜の貨物列車のように見えた。
ジャンヌモローが友情出演かなんかで出ている。口をへの字に、相変わらず不機嫌そうな感じであった。これが、彼女の決心であるのだろう。へつらいなどになびかないというものだ。
ドロンの行くところにはフランス、パリの、陽気なエスプリの効いた様子が沢山盛り込まれている。
素朴で、人の良いパリっ子、豪奢な生活に明け暮れるパリっ子、どちらも描かれていて、ちょっとした
ツアー感覚が楽しめる。
フランス人のドロンは、人が良いというか、お間抜けというか、そういう境界線上の人柄を持ち合わせ、世界の恋人とは、懸け離れていると思えるところが多々ある俳優だ。
カッコつけないかっこマンという意味だろうか。
権力をもった行政が、誤った方向へ行くと、現代でさえも同じ事が起こり、市民の人権は踏みにじられるだろう。
そんなことを思い起こす映画である。