作者の釈は浄土真宗のことをよく勉強しているそうで、そういう本をいくつか書いている。「法然、親鸞、一遍」というような本も表している。
ワテは悲しいことに、浄土真宗について何も知らないのだが、親鸞の名前ぐらいは聞いた事がある。
何やら、とっても偉い人というわけだ。
いや。いい事を言っていますからね。一番気に入ったのは、薬があるからといって、毒を好むな。というようなのです。解毒剤やらがあるといっても、毒を本当に飲んじゃったら危険ですよ、という話です。
これは薬があるから糖尿病にでもガンになっても大丈夫だぜ、イエーイ!みたいなおかしな逆説的思考をいさめているのではないのかな?
次に問題になるのは、義絶された息子の善鸞である。関東の方を任されて、父の親鸞は京へ帰った。そこへ親鸞を誹謗するような噂や手紙が来るようになる。
息子の善鸞は父の教えとは違ったものを皆に説き、実は、これが本当の父の本心であると、皆におかしな事を教えた。これによって親鸞への誤解が生まれた。
これによって、親鸞は苦しみ、また、人々の信仰も離れていったのだ。
息子は父のことを本当の姿は、息子の自分のみが知っているといった。
まあ、これも嘘ではあるまい。
世間では、立派な和尚として大成された尊いお方として、崇められているが、息子には違うものに見えたのかもしれない。
まるで、復讐にごとくに、父親 親鸞へとはむかっていったのだ。
逆に実は親のことを案じていたのではないだろうか。
この善鸞こそ、親鸞の裏側というか銅貨の裏表のようなきがする。
現在でさえ、親鸞様の話をする人たちの口調は、尊敬してやまない、我々を救う凄い人、という強い気持ちがこもっている。それを聞くにつれ、ワテは宗派も違い、曹洞宗の道元さんなのでさっっぱりわからない気になる。
思うに、小さい頃から慣れ親しんだ宗派というのは、そのまま大人になってもそのままの形で残り続ける。三つ子の魂であるのだと、つくづく感じた。誰を信じようとそれを心の支えにしていることは確かだ。