マティスは1869年生まれであり、ピカソは1881年に生まれている。12歳の差のある二人である。
ピカソの方が有名であり、ピカソの絵を知らぬ人はあまりいないだろうし、一方、マティスの絵は、よく知られていないとおもう。
二人の制作風景もちょこちょこと出てくる。よくこのような映像が残っていたものだ、と感心する。
私がマティスを知ったのは、北野武監督の「アキレスと亀」であった。興味をもって調べてみると、マティスの絵画にかける激しい気持に惹かれていった。
タケシは、フランスで勲章を貰っている。これはあげてもいいと思った。
カンヌはフランス領だし、ニースもイタリア領であったがフランス領になった都市だ。
マテイスの穏やかな美しい色彩の絵の中にどういう激しさがあったのか。
絵よりも画家の人生に興味をもつスッポコであった。
彼にも妻や子供がいたのだが、絵を描くことに一生懸命で、家族を顧みなかったのである。
家族は出て行き、彼は孤独のうちに生きた。
マティスは80の年齢になって教会の壁をたのまれたのであった。
これはなかなかの栄誉な仕事であった。四年の歳月をかけて考え、壁を仕上げた。
小さな教会であったが、大きく見えるように光を利用した。
仕上がったのちに、マティスはあの世へ旅立った。または、途中であったかもしれない。
あるエキシビションで絵を出した若き日のピカソとマティスは、その時代 とても前衛的であり、誰もが、彼らの絵を嘲笑するばかりであった。
だがある画商の目に留まり、彼らは二人の絵を買いしめてしまった。彼らは絵画に対してすごい眼識を持っていたことになる。これはどういうことだろう。
絵の具を塗りたくったような子供の書いた絵ともみえるマティスの絵と、
当時ではとても理解不能なピカソの絵である。
画商の眼に狂いはなかった。二人はその後世界に認められて、偉大な画家として賞賛されるようになったのだ。
この画商なしには、二人はこの世に認められることはなかったであろう、ともいえる。
画商はこの天才の二人をお互いに引き合わせなくてはと真剣に考えた。
そして、ふたりはお互い、良い意味で刺激しあったようだ。お互いに持っていないものを補うべく、お互いに絵を交換したりして、友情を交わしたのだが、マティスは、ピカソの前衛的な芸術性に頭を下げ、その道を譲った。
ピカソは、戦争中はじっとアトリエでこもっていた。そして戦争の間も絵を描き、かれなりに戦争と戦っていた。二人のすんでいたパリは戦争でめちゃくちゃになっていたが二人はなんとか生き延びたのだった。ふたりは必死に絵を描くことで、戦争を退けようとしていたかのようだ。
その後マティスはニースの良い館に移り住んだ。そこが、家族との確執に苦悩した家でもあった。
美しい海辺の館、しかし実際には恐ろしい家族内の憎悪に満たされたものだった。
しかしながら、マティスは1日も休まず絵を描き続けた。
マティスの絵は時折、全く無防備で、無邪気な絵を描いてピカソを驚かせた。
一方ピカソは頭脳の画家とも言われ、構図などをよく考えて描いたらしい。
ピカソはその後共産党にかたより、だんだんとマティスと疎遠になっていく。
女性にしても数々の女と付き合いその度に大きなインスピレーションを感じるタイプであった。
その中にフランソワーズ ジローという女性がいて、ピカソとの同棲時代や、マティスの事をこの映画で楽しそうにかたってくれている。
彼女ももう現在は95歳である。
私は、絵のことは、ど素人で、ピカソやマティスがどんな風にすごいのかはよくわからないが、
ピカソの「泣く女」は、泣きながら笑い、笑いながら泣いているような辛い状態の人間を描いているのだと思った。人間誰しも二つの顔を持っている。マティスのことは、綺麗な色彩だけは斬新であると思うが、よく分からない。
だが、マティスは、もっと、シュールな動きのある抽象画が描けたはずであった。近いところまで行ったのであろうが、
もっともっとシンプルに削っていくべきであった。そして万人の心に届くものを作るべきであったのだ。