この監督は何というか、変わっている人である。だが自ら死んでしまった。天才とは辛いものなのか?
1987年橋でにバブルが弾けるという言葉が巷に浸透していった時代であった。田舎ではまだまだピンとこない話であった。まずバブルというもの自体を見たこともなかったから。
マルサの女は税金を集めるというか、脱税したものを取り締まって、金を出させる役人の女のことである。
今回は、第1話よりさらに、煮詰まった様な濃厚な話になっている。それもそのはず、悪者には三國連太郎を配し、主役は、もちろん、妻の宮本信子である。
宮本は長く監督の妻としてまた二児の母として主婦に徹して生きてきた。味にやかましい夫の料理を作っていたという風に思われていた。
監督は、妻と期が熟すのを待っていた。
そしてまた夫の監督と共に、表舞台に再来した女優だ。長野出身の宮本は、昔から奇人変人の女優で他より一枚も二枚もぬきん出たものがみられた。若かりし宮本はとてもコケティッシュで、いわゆる文化の先端を走っているランナーの様に見えるのであった。その天然の才には、何かただならぬものがあった。懐かしいなあ!それも監督の演出であったのか?!
ただ、映画では、監督の考えだろうか、その天然は影を潜め、普通のおばさんんの様に振る舞う役が多かった。
監督は自分自身が普通の人ではなかった故、普通の人に憧れていたのかもしれない。
映画に出てくる宮本信子は、スッポコが知っているシュールの極みの様な女ではなくなっていた。
アレー?!、なんでだろ?
内容は何か複雑でよくは分からなかったが、悪者が集まっては金の事でゴテゴテと談合し、大金が懐に入ってくる様に悪巧みばかりしているのである。大金が、自分の所に入るようにうまい手を あれこれ打って自分たちのみが儲ける様にしているのである。権力を使うもの、ヤクザを使うもの、まるで 亡者の列である。頭がいいのか悪いのか、誰ぞ知らぬや。
三国は宗教法人の名の下に、無税となり、それを隠れ蓑として、多くのラブホテルや、スナックバー、また、ヤクザを使った地上げの会社などを営業しており、多額の収入を脱税していたのである。それをつきとめるのも、またマルサにとっては至難の技であった。まあ、普通の人には無理であろう。
音楽もノリノリで、打楽器とホイッスルとが、リズムを刻んでドンドンガンガンおもしろい。
下っ端のものは、口封じに殺されて、上のものはますます肥え太る。現在の政治を見ている様だ。
発展の名の下に肥え太るものの企みは恐ろしく誰もとめることもできない。生き物のように止まることを知らない。国を街を村をどんどん飲み込んでいく。末端を切っても、上に行くほど中心に行くほど悪く腐っているので、つまり、忖度の網の目で繋がった輩の仕業とあらば、そう簡単には、
誰も、その木が切れないのである。いわゆる呪われた木だ。切ったものに災いが。
ワイワイ、賑やかい映画だったが、なあんだ、こんなものか、観て損したなあと思わせない伊丹監督の映画の情熱が集まった作品だ。