中学の時にカラヤンのベートーベンのジャジャジャジャーンを聞いて以来のことで、奥手過ぎのスッポコは、カラヤンなるものさえ知らぬ田舎者であった。わたしはあの頃は本当にバカであり、鈍感なだけのよく太った女子であった。自分自身が、ジャジャジャジャーンであったのだった。私にレコードをくれた友人がいた。いや買わされたのだが。その時初めてカラヤンの名を知った。それはともかく、
この本では、全てカラヤンに対しての 当てこすりというか、いやなイメージが延々 と書かれている。つまり アンチ カラヤンたる本である。どうしてここまでカラヤンを嫌って、カラヤンに食って掛かるのかは不明である。
スッポコもどちらかというとこの本の言ってる意味がわかるのだが、アンチ過ぎてカラヤンも苦笑いしてるだろう。ベルリンフィルの前指揮者のフルトヴェングラーは生き生きとした音で勝負したが、一方カラヤンは、繊細で美しい音色で押し通した。どちらのメロンが美味しいか、はっきりと言わなくてはならない時がが来る。
スッポコはカラヤンの音は嫌いだ。ずっと聞いていると退屈して眠くなる。一方、フルトの方は、生き生きとしているので、聞いていても疲れないし、嫌なら消せば良いと、ごく単純である。
スッポコはカラヤンのモーツアルトを聞いてみたが、さっぱり分からなかった。はてな?という感じで首を傾げていた時にこの本を見たのである。かれはレコード制作の折には録音されたものをいろいろ切ったり繋いだりしてパッチワークの様にして一つの曲を作ったそうだ。これはあかんわ。なぜこういうことが聴く人にとって我慢にできない事なのかはたいていの音楽好きの人なら分かるだろう。もちろん今ではそんな録音音楽ばかりであろうがね。
洋食にかけるレモンのようなサッパリとした感じが気にいっている。
ただ、モーツアルトのレクイエムは作られすぎた感がある。切れ切れをつぎたすとやはり、おかしなものになるのだ。プラスばかりで、マイナスが無くなるので、面白みに欠ける。最後に合唱で、「アーメーン」っと歌っているのさえ、滑稽だ。
彼が目を閉じるのは、彼の前には、オーケストラの面々は存在しないという意味であったろうと著者は言っている。
自己愛の人だと著者はいっている。弱い心を悟られまいとして、強いものの様に振舞った彼であった。
一流の音楽団員、耳のこえた聴衆の中で、彼は震える木の葉の様ではあってはならなかった。
では彼には才能があったのだろうか。本物の才能とやらが?
この本を読み、逆にカラヤンのどこが素晴らしいのかが全くわからなくなってしまったスッポコであった。
音楽に対してはどのジャンルも隙間だらけで何も知らないおばさんが、こんなことしゃべってていいのかな、そりゃあいいだろうてな。

- 作者: 中広全延
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/03
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