スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

本 陽光桜 高橋 玄 2015年 t

映画(高橋玄 かんとく)はまだ観てないので、本を読んだ。陽光桜のファンであるので。

これは高岡正明という愛媛県の男の伝記のようなものである。映画監督が調べて映画も作り、本も書いた。正明は昔、教え子達を戦争に送った事を悔いて鎮魂のためと、世界の平和を願う聖願を掲げて桜の新しい品種をつくったひとである。とても変わった人で、勉強家であった。夜はいつも書斎で本を読み研究をした。沢山の蔵書があった。また、死後に部屋から桜を送られた人々からのお礼の手紙が沢山出てきた。
彼は自分の思いついたことは家族が何と言おうと通す人であった。お金がかかる事にも気にせず桜のためならどこまでも研究するのだった。交配を繰り返す年が何年も何年もつづいた。やがて30年も掛かってすばらしい桜「陽光」が誕生した。この桜は、いろいろな気候にもかかわらず、花の咲く品種でありいろいろな国で花咲くので、世界平和を体現したものだった。これは病気にも強く、ヤドリギもできにくい桜であった。
家族は自分の研究ばかりしている父親に大きな不満を持ち、それは彼があの世に行くまで続いたのだった。無料でボランティアで桜を配る事に意味があると言い張る父親。しかし費用はかさむ一方であった。それは長男を苦しめた。彼は、家族から宇宙人とあだ名をつけられていた。こんな人でなしのような意志の力がなければ、この陽光はつくれなかったであろう、と感じる。
別に気が変というのではなく思い詰めて朴念仁の様になっても追い求めつづける正明を宇宙人とでも呼ぶしかなかったのだろう。
アメリカの、カーター元大統領、コリアの大統領などにも、桜を送りつけた。二人とも、正明にお礼状を送っている。
さくらはは新品種として登録されたが、専売特許などは取らず、だれでも増やして売る事もできるのだった。これも聖願のためであった。かれは世界平和を望んでいた。美しさの際だつ桜で、平和が実現されることがかれの本当の狙いであったのだ。
それにはただ桜のみではダメだと現実的なことも考えていた正明であった。国連と世界の国々の協力が是非とも必要であると説くのだった。
彼がやったもう1つの知られざる事業は「伯方の塩」の会社をつくったことである。日本では塩を国の専売公社が独占にしてしまった時、日本各地の塩産業は、亡びる運命を背負うことになってしまった。
正明は、体に良い塩は残さねばならないと、地元愛媛県の塩の存続に尽力し、伯方の塩は生き残った。
実は彼は結核性の脊椎カリエスという怖い病気を持っていて、若い時から、食べるものにも良いものをという考えがとても強かった。自らも玄米と青汁を取り病気を克服している。
そんな彼だから、塩にもこだわったのである。初代社長となっている。社訓も変わったものだった。
彼は92歳で亡くなったが、そのあとも陽光桜は、いろいろな国に旅だっている。
彼の性格は、頑固で一途過ぎたようだ。それが長所で短所である。変わった人もいたもんだ。
しかし彼のおかげで、現在に美しい桜を見ることができるのだ。
やや早咲きでピンク色が濃いめの沢山花をつけるさくらである。色の美しさは群を抜いている。
 
 

 

 

 

 

 

 

陽光桜 非戦の誓いを桜に託した、知られざる偉人の物語

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