もう昔のことのような彼の言葉、そして単純化されたがゆえに、何か馬鹿のように聞こえる彼の言葉。
ところが彼はサルトルまたはさかのぼって、デカルトらの自由そして自我に関する考察を否定しているものでもある。
目的のない自由は、無意味であり、苦しいものであるからだ。
お般若心経には 「不増不減」と言う言葉がある。この意味は、お金だとすれば、いくら大金を稼いでも、
増えたのではない、という意味だろう。どんどん蓄財する業者がいたとしても、悔しがることはない。
これは、大宇宙のルールとして存在しうるものなので、いつかは、唸っているお金は消え去るのだろう。
と言うことは、お釈迦様は現実に即した言葉を残してくれたといえよう。お経は、遠い、理想郷の言葉ではなく、現実を踏まえていると言うことになるだろう。
これは仏教の説教のお説教ではないのだが。
なぜなら欲望の虜になっている人には、目が眩んでいて、何も見えていないのも同然の状態である。
お金が溜まってゆくと言う幻想に酔っていることは、不快な悪夢のようなものかもしれない。
フランクルも、同じようなことをいっているのだ。
欲望には限りないこと。
お金を求める人は、結局お金を失い、健康を求めて突っ走る人は、健康が手に入らない。
幸福ばかり求めていても、幸福から、遠ざかってゆくばかりだ。
自分の欲望を優先して行くと、無理が生じると言うことだ。
まあ、そんなものだと、納得できるのではないですか?
スッポコも、沢山の失敗ばかりの人生だった。追い求めるばかりでは、何も生まれないものかもしれない。