アドラー心理学基づいて、生き方について検討している。師となる哲学者先生と、まだ人生半ばの
若い青年とが討論する。問題となるのは青年がいろいろな悩みを持っていてそれをどう解決していくかを哲学者が答える。
そもそもアドラー心理学とはどういったものなのかよく知らないまま読んでいくと少し迷路に迷い込むことになるだろう。だがそんなことは言っている暇は無いのだ。ただ読み進んでいくだけだ。
アドラーの心理学は人間性の優しさ親切心そういった善の部分が大きく打ち出されているように思う。
つまり悲観的ではないのだ。
人生において大切な事は人に尽くし人に喜ばれる。そういう貢献をするということが1番大切だと説いている。
次に人にどのように見られているかと言う事は全く問題外でありそして自分が何がやりたくて何をしようとしているのか、そういった自分の本当の気持ちを1番に大切にしていくそういうことが人生においてとても重要なことであると説いている。
この貢献と、主観的自己とが、相反することはないのだろうか?不思議な矛盾というか。
自己主張のみ、大切にすることについて、若者は大変な矛盾があると言って反論してくる。「現実の社会においてただひたすらに
自分のことのみを考えて行動した場合大きな軋轢が生まれてくるのだ」と、危惧している。
しかしそこで哲学者先生は若者の考え方を否定する。「それは間違っている。君の理論は大きな間違いを起こしている」と言うのだった。
アドラー曰く、人生とは点であり線ではないのだと言っている。つまり赤ん坊として生まれそれからずっと少年になり中年になり老人になりそのような線状に人生はあるのではないと言う意味である。
何かをしようとするそしてずっと努力をして目的を達して、結果を出す。そのようなものが人生であると言うのは間違っている。人生とは点のものがずっと続いているようなものである。
このようにとても理解しがたい形而上または哲学的なイデア持っているのがアドラー心理学である。
それを理解するには少し時間もかかるし何かとても理解し難い非常識的なものを感じる。
案の定この青年は先生の言ってることに面食らい頭を抱え込んでしまう。そんな事はありえない!
そう叫びだす。だが先生はあくまでも冷静であった。
この本はどこかおかしいような気がするのはなぜだろうか?
作者、読者、またはアドラー心理学自体が、変なのだろうか。消化不良とまでは行かないにしても、生煮えの野菜を食べたような気分である。
この本は何かと話題になったらしいが、私にとっては何か物足りないというか理解しがたいアドラー心理学の側面を見たようであった。
こういうまどろっこしいものではなくアドラ心理学自体を明確に説いた本を昔読んだことがある。ただ
それを読んでいる最中には何かとても良いことが書かれてあって心が暖まるような、人生を肯定的に捉えれているような、そんな麗しい気持ちになった思い出がある。
それは、アドラーのアという第一母音から始まる名前ではじまるせいであろうか?