スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

行持 ぎょうじ 正法眼蔵より   道元(1200年誕生)

行持とは、修行をずっとやっていくと言う意味である。休むことなく日々努力してゆくのだ。

まあ、そう言う気持ちが最も大切なのだろう。

 

いろいろな修行僧のぎょうじの在り方を述べてゆくものである。

だから、短めの文章の集まりである。

 

宇治拾遺集、今昔物語などに見られるような、おもしろおかしい人間の僧の修行の有り様が書いてある。

 

例えばだが、ある僧が、修行のために立派な師匠のいる寺に預けられたが、牛を飼うことばかり任されて、何年も何十年も牛の世話をしていた。立派な牛にはなったが、師匠は一体私に修行という事については何もおしえてはくれなかった。ある日、初めて心に疑問が起こったと言う話である。

 

これも呑気な話である。微笑ましく愚直な人間の良さが全面に出ている。

でも本当、お師匠様は何を考えていたのでしょう。

 

またある偉い僧が、山寺に篭ったが、栗などを拾っては食べて、村人には一切お布施を請うことはなかったという。

次の日のために、木の実などをとっておいて食べることもあった。

椅子の脚が壊れても、新しい木を使って直そうとする弟子を止めて、使い古しの木をあてがって

どうしても新しいものに変えようとはしなかった。頑固としか言いようがないが、ブッダの服は、

いつも、皆が便所で使った布を洗って干したものを縫い合わせたものだったことを知ってのことだと思う。

 

いろんな人の現代語訳があるので、好きな人のを読めばいい。ちなみに、私は老眼気味なので文字の大きいものを選んだ。

 

内容が、おおらかで広がりがあり、文体は引き締まっていて無駄がなく古代のロマンの趣が感じられるのだ。

文学的にも優れたものだと思う。

 

道元は、貴族の家に生まれたが、強い意志のひとでもあったし、いわゆるこの世の天才でもあった。

宋に渡り本物の仏陀由来の仏教の法を得て帰ってきたのである。

 

一人の人間が、祈り願うことは、その霊気が世界に広がり世の中が良くなるのだと言っている。

この汚れた現代にそんなことは信じられないかもしれないが、美しいヘリ下った心というものは、

醜いものをも浄化してしまうのではないだろうか。

 

正法眼蔵・行持〈上〉 (講談社学術文庫)

正法眼蔵・行持〈上〉 (講談社学術文庫)