ある夫婦がいて、夫は裁判にかける事案があって、京都へと旅立って行く。
田舎に残った妻はわびしく寂しく、夫が帰るのを待っていた。
長くても一年ほどで、帰ってくる予定だった夫は、裁判が長引き、なかなか家に帰れなかった。
家で待つ妻に夕霧という女の召使いが夫の手紙を持って帰ってくる。
「もう三年経ってしまったよ。だが今年の暮れにも帰れない。」
それを読み、崩れ落ちる妻であった。
待って待って待ちわびる、そんな女の気持ちが、男にはわからないのだろうか。
なぜ私のことを忘れているのか、この辛さはもう限界であった。
月を見てもすさまじく(興ざめで),秋の草木もいよいよ枯れて散ろうとしている。
梶の葉という言葉が出てくるが、本当に船の舵の様な葉があるのだ。
男の不在を恨みつつ、故事に習って、砧を打つ女であった。この音があの人に届くとよいのにと。
故事では夫に届いた砧の音も、京の夫には届きもしなかったらしい。
本当に悔しい。そうしてだんだんと、女はおかしくなって行き、気の病で、死んでしまった。
夫が帰ってみると、妻の亡霊が現れる。
亡霊は自分自らの怨みの煩悩に焼かれ、苦しんでいた。その苦しみを嘆く亡霊を見て夫は、ふかく後悔し、妻に同情をする。
そしてありがたい法華経を読むと、苦しむ妻の亡霊は、心明らかとなり、心静かに、成仏するのだった。
心の中に巣食う煩悩の火は、人間として誰もが持っているものではあるまいか。