ガス室送りになるところだったフランクル先生は、ナチス(国家主義)の収容所で、いろいろな人に会ったそうだ。
同じ精神科医や、社交界で大いに名を馳せた紳士や、哲学者とか。そのようにこの世では 名の知れた有名人たちも、その位に関係なく同じように、ガス室で死んだり、地下の塹壕のような部屋にずらりと並べられて、死を待つ人々と同じ場所を共有した。
それらの人々も他の人々も最終的に人間の尊厳を失わず、人間として死んでいった。
このような究極な苦しみを受けても、なを人間というものは生きている意味を探しているというものらしい。
この本はかなり難しくて困ったが、著者の言いたいことは、大体察しがついた。
今までの心理学で人間を推し量ることはいけないということだ。病んだ人の心を直すのには、心理学主義 、生物学主義、社会学主義の尺度で測ってもむだなのである。
ここ数世紀の間、と彼は言う。
現代の活動性と、合理性を重視した考えが、世界に蔓延した。
それらが人間の根本なる、死と苦悩を見えなくしている。
「活動的、能動的でないもの」はまさに削除されていく現代である。工場では生産性のないものは消されるだろう。
生物主義によると、生きて動くものだけが人間であるという。能動的に動けぬものは、もはや、用無しである。
工作人、というのは、創造価値の絶対化であり、ものを作ることだけが良いものとされるのである。
知性人は、ただ理性的であれかしとして、理性を女神に祭り上げた考えである。
我々は、社会や学校で、常に「理性的であれ」と諭され続けてきたではないか。
また、彼は、大御所ユングさえも彼の所見は間違っているところあり、といっている。
抵抗できない大きな無意識世界について、そういう考え方についての、疑問を投じでいる。
自分の人生への責任をいかに具体的にとって行くのかということを患者は考えんくてはならないのだ。誰のために生きているとか、何かのために生きているとか、何かしら生きる意味がなければ、人間は生きていられないのではないか。生きる意味の喪失感ほど辛いものもない。
自分は何にも役に立たないし、生きる意味も持ってはいない。糸の切れた凧のように、ただ風で漂っているだけだ。
そんな気持ちを、スッポコも感じていた時期があった。生き地獄である。
苦しんでいる人は、きっと誰かのために、それとは知らずに苦しんでいるんだ。
スッポコはそういう人はきっと
誰かを助けるために、苦しんでいると思うのである。
いくつかの例を出して、治療を紐解いている。
また、未来は大変不確実であるが、過去は確実そのものである。色あせた過去などない。あの時心から嬉しかったこと、幸せだったことは 消えることなくあなたと永遠に共にある。美しかった過去を思い出すのはとてもよいことらしい。
認知症の治療にも使われている手法である。
妻を亡くしてすっかり元気をなくした男がいたが、フランクルの治療を受けて回復した。
逆に、あなたが死んでいたら妻は苦しんだだろう。あなたが今生きていることは、妻の苦しみをひきうけたことになる意味あるのだと。
難病の死にかけた人々も生きる意味を強く噛み締めていた。
苦しみを通して、その対価として人間は生きる意味を得るのである。
収容所で暮らすことは、どんな十字架を背負うよりも早く心が神に近づくというか、そんなものだ。
殺された仲間も生きているものも含め、自分たちをそうさせたナチスの人々を、許す。
許しましょう。許します。そういって死んでいった人々がいるのである。
それに全てが集約されているように思う。
ニヒリズムの思想、つまり心理学主義、社会学主義、人間中心主義、といったものは、人間の心とかけ離れたものだといって、フランクルは否定し、論破する。
ただわてにはニヒリズムという言葉がよくわからないのだった。
内容が無意味である、といったことらしいが。
人間はロボットではない、主義に宙吊りにされる存在ではない。価値の押し付けは、人間を否定したものだ、みたいな論理で進んで行く。
読んで理解できる方、読んでみてください。
- 作者: ヴィクトール・E.フランクル,Viktor Emil Frankl,山田邦男,松田美佳
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- 発売日: 2004/10/01
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