スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

実録・ 連合赤軍あさま山荘への道程 2007年。

この事件は、1972年のことであった。その時わては17才の田舎の高校生であった。

毎日が生放送のテレビであさま山荘の事件が中継され続けていた。

 

彼らのリーダは森恒夫永田洋子(ひろこ)の二人。連合とはいろいろな流派のグループが 一緒になってできたからである。

森は強盗してでも資金をためこんだ。永田は銃弾などの武器を持っていた。それらは、なにやら強盗やら、悪い手口で手にいれたものであったらしいが。

この二人が出会って、意気投合して一つの連合軍を作った。他にも東大などの学生運動に関わっていた学生上がりの闘争員が数々入って来た。その他の流派の共産党運動の者たちもいた。

皆20才前後の者たちばかりであったことは衝撃である。社会で働いていた者らも、資金を皆投じて、仲間に入った。

殺されたのも19才から24才、などが多くいたのである。20才にも満たないものも加わっていて、兄とともに16才の少年もくっついて来ていた。

なぜか妊婦や、乳飲み子を連れた女もいた。

 

 

かれらはどの様な家庭の子らであったのだろうか。その研究というかその辺のことは、不明である。

家族をおもんばかってのことであろう。山に入ってしまった我が子を取り返したいと親達も必死ではなかったろうか。大学などに行かせねばよかったと、後悔しただろう。

そして、諦め、佇むしかなかったろう。

 

裸の19才という映画では、死刑囚永山則夫は、当時の学生運動を、覚めた目で見ていた。大学に行き、更に学生運動で日々を過ごすなど、小学校もろくに行っていない彼には、異世界のことであった。

 

連合赤軍は、使われていない山小屋などに住み込み、東京からの追っ手から逃げる生活が始まった。

過激派としてマークされ山での生活は困窮を極めてゆく。山での生活なんて、サバイバル生活である。そこで、ライフルの様な大きな銃の使い方を練習したり、匍匐前進の練習をして戦える部隊になるための訓練を日々積むのであった。本当の戦闘員になるために、山の斜面を走って、訓練を積む彼らであった。

 

彼らは純粋に、平等の世界、競争のない世界、自分の能力を大きく伸ばせる世界、、争いのない平和な世界そのような理想郷を、エルドラドのような理想郷を目指していた。(このような理想社会のことを、ゲーテも物語に書いていた。)それが赤軍の本来の中心思想であった。

森は、演説を始めると止まらずに、朝まで一晩中演説して仲間を苦しめた。

 

永田は、いちいち仲間の挙動を監視していて、少しのほころびも許さなかった。特に、髪が長い女や、綺麗に化粧する女は最初に殺された。関係した男とともに、土に埋めてしまった。

皆が次は自分の番ではなかろうかと疑心暗鬼する中、やはり少しのミスなどで、たくさんの人が殺された。共産党の魂が欠けているというのがその理由であった。

脱走者も数名出た。脱走者は死ぬ覚悟で、傾斜の激しい山中を走ったのだった。

 

理想を持って集まった若者たちが、なぜこのようになってしまったのか。

本当のところはどうだったのか。そのような疑問が次々に生まれてくるのだ。

 

一緒の同志であるとか、思想が一緒だとかは、なぜかもはや、忘れられたようにお互いを、拘束し会う。

 

だがこんなにも簡単にそうなれるものなのか。

その異常さは、何に例えればよいのか。

観ていると、ただ側に存在するものを呪い抹殺するというだけの単純なものにさえみえる。

 

全て、総括と言って、

赤軍の追い求める共産党の魂を奥深く植え付けるためというスローガンのもとに行われて正当化されていく。

幼い若者たちは捕らえられた子犬のように逆らうこともできなかった。

 

苦難は続き、雪山を超えて新しい山小屋を探して歩く日々。警察も迫っていた。

 

森と永田が、さっさと捕まり、残りの5人はヘリコプターに追われて、軽井沢方面のあさま山荘に逃げた。

 

そこで何日も立てこもり、旅館の女将は、結果的に助かったが、まだ、たくさんの殺人が行われたことを世間の人々は、まだ知らなかった。

銃撃戦で死人も出た。母親たちも来て、出てこいと説得した。泣き声のようであった。

遂に捕まった五人であったが、戦慄的恐怖はその後であった。

報道人たちも、信じられないと行った風に、首を降るばかりであった。

 

数十人いた人員の十数名が、リンチにあって命を落としたという報道を聞いて、この人たちは、仲間を殺しあっていたということが明らかになった。リーダーの森は監獄で自殺、

永田は病気を患っていたが、獄中で亡くなった。