誰かしら、この奇妙な名前は聞いたことがあると思う。
美容師の世界を芸術にまで開いたイスラエル人のヴィダルサスーンは、貧しいロンドンのユダヤの家庭に生まれたのである。子供の時は父親は蒸発し、貧しいために孤児院で育った。そこでは教会の聖歌隊で歌っってはいたが、教育はほぼ受けてはいない無教養のまま、社会に投げられた。
そのとき、彼を、美容の世界に入れたのは、母親であった。「おまえは美容師になりなさい。」
そう言ってある美容院に連れて言った。
そこで、shampoo boyとして働くようになる。シャンプーボーイ、この軽快な言葉。
初めて作ったヴィダルサスーンの店は、とても変わった店であった。
お客の注文には答えず、ヴィダルが好きなように好きな髪型にしてしまう店であった。
それが嫌なお客には、タクシーを呼んで帰ってもらうと言ったやり方であった。
彼には新しいものを求めて一つたりとも妥協を許さなかった。人にも自分にも。お客にも。
ロンドンでは、どんどん新しいファッションが生まれ、ミニスカートが生まれ、それとともにヴィダルのカットもうけいれられたのだ。
ビートルズ、ローリングストーンズ、ミニスカートのマリークワントなど時流はヴィダルの方に流れていった。ファイブポイントカットや、ジオメトリーカットなど次々と新しいヘヤスタイルが雑誌に載った。もう彼の名を知らぬものもなく、店はいつもお客がひしめき、大変な騒ぎであった。
ガラス張りの新しいサロンはその頃とても斬新であった。
進み過ぎのモンドリアンのファションには彼のカットがとてもマッチする。
たくさんのスタッフが、一団となって働き、皆がヴィダルのカットの技術を会得しようと必死になっていた。
とても厳しく躾けられて、お茶の出し方や、ドアの開け方や、タクシーの呼び方まで、厳しいもてなしの技術も磨かれていた。
ヴィダルのカットはとても進んだものであり、魔法のような不思議な魅力と驚きに満ちていた。
わてが唯一知っているのは、
これはもちとんヴィダルではないが、ある美容師が奥さんの髪を切った。
とても短いカットであった。
次の週に会った時には、奥さんの髪はナチュラルに落ち着き伸びていたが、とても美しいカットのウェーブが出ていて、息を飲んだ。
これはどうしたの?ときくと、「うちの旦那がカットが上手いのは、いい師匠の元で学んだので、こんなに綺麗なカットができるのよ。」
といったのだ。
きっと日本にも、ヴィダルの技術は伝わってきたのであろうと思えた。髪の生える方向に決して逆らわず切っていくやり方。
うつくしいカット、これが彼の命であるのだ。
シャンプーボーイから約70ねんに渡り、髪を作り、髪を切り続けた彼は、イギリスからも勲章を貰うし、ファッション雑誌vogueのエディターのコディントンの髪も受け持った。
彼の嬉々として働く姿が皆を元気付けることは請け合いである。