スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

ピエールカルダン 王国までの道

華やかなファション業のなかでも一番に粘り強く、忍耐強く、かつエネルギーに溢れる男でありえた

ピエールカルダンは、人間として評価すべき人である。17歳で、お針子になり、美しい縫い目に、多くの客がとりこになっていく。コクトー監督の「美女と野獣」の重厚なドレスにもかかわった。
コクトーにかわいがられ、ピカソアポリネールなどの芸術家を紹介される。コクトーはとても裕福な家の子で芸術、社交界のあらゆる面につうじていたそうな。時代は戦前のことである。なんでもかんでも手作りで貴族たちは、1年分の洋服を すべておはりこのいる店でつくらせていた。ので服飾店はとても忙しく、また儲けもあった。ココシャネルも同じ通りにみせを開いていた。父の代の
まずしいイタリア移民のカルダン一家は苦労に苦労して、暮らしていた。ぶどう農園の農家であったが、生活ははきびしいものだったので、山の氷を切り出す仕事をして父は家族をささえるしかなかった。そのような中で、ピエールの忍耐力は鍛えられていく。王国は、重い荷を背負って歩くことからはじまったのだ。そして、父親譲りの強靭な身体である。
子供の時に見た美しいお人形、そのお人形に最も美しい洋服をきせたいと思った日から、彼のファッション人生ははじまるのだが、パリの有名な店で腕を磨き、お決まりのように、その頃新進気鋭のクリスチャン・ディオールの右腕となって働くし、。パリのロワイヤル通りにじぶんの第一号店をひらいた。それはジャンコクトーの恋人と言われたジャン・マレー(男)主演の衣装をつくるという意向で作られた店だった。ディオールもお祝いしてくれた。その通りは、くしくも飢え死にしそうになって、たどりついた場所でもあり、一杯のスープにありついた店は その後彼の店になり、同じスープを売っているのである。彼はそのごマキシムという超一流の食堂を手に入れた。それはなんというか、運命でもあったのだろう。運命の方からマキシムを連れて、彼に近付いてきたのであるから。マキシムが東京に来たのは30年前のこと。世界制覇が彼の夢。なぜそこまで貪欲になれるのかは神のみぞ知るというものか。マキシムの以前には、彼は、劇場も作り、いろいろな若者の前衛的な劇を支援していた。本物のいきた大蛇が出演する舞台には、彼は悪戦苦闘して、大蛇を買うのにかけずりまわらねばならなかった。それでも劇場は守った。彼は若い人達のアンテナを軽んじなかった。ジャン・ルイ・バローらが不思議の国のアリスを演じたのもカルダンの劇場である。これは観たかった。ロック歌手アリスクーパーが首に大蛇をまいてシャウトもした。とにかくいろんな芸能人が。
ピエールカルダンのネクタイはひろくしられているがネクタイを売り出すというアイディアはカルダンが最初に考えたのだ。
マキシムは小さなアイスクリーム店から始ったものであるが、カルダンが引き継いだときは
「ネクタイ屋の高い値段の食堂」と罵倒されたが、結局成功している。素晴らし支配人にすばらしい料理人、ウェターは客のすべてを知り尽くしたおもてなしができた。リフォームの建築にはもう有名すぎるかっこいい建築家たちがアイデアをしぼったのだ。かれらはアールヌーボーの騎手たちであった。パリ万博といったら、アンリ・ルソーの絵画があるが、そのころの話であるから、ずいぶん昔ってかんじはある。でも昔っていいじゃないですか。ルソーは今でも新しいし。
昔の時代はしあわせで夢が満ちているじゃないですか。
マキシムのお客はやはり貴族や王族達がおおかったのだがそれが金権政治のようだと、嫌う人々もおおかった。でもかれは我が道を歩くのみであった。
ジャンヌ・モローと愛し合うようになったがココ・シャネルがカルダンの店を紹介したのがキッカケであった。それいらい逢引きを重ねたが、結婚にはいたらなかった。カルダンは愛する彼女のためにドレスを何着かつくっている。映画でも着ているが、一番お気に入りの緑のドレスは、決して公にはせず、モローは大切にしたのだった。カルダンは整った顔立ちをしていたし、瞳の輝きがすばらしいのだと人々は言う。今の私の願いは、ピエールの作ったパターンが欲しいなぁということです。昔のもう伝説となった確定的なパターンとはどういうものなのかと想像するだけで、もうルネサンスラファエロボッティチェリにあうような喜びとワクワク感があるのよね。 また、パリ万博に合わせてリフオームしたのは初期のマキシムのことだとおもいます。それをカルダンは さらにユニークに働きやすい店にしたのです。おしゃれな店にしました。 
あなたの夢は成熟するワインのようではありませんか?あなたの父がぶどう作りをしていたのは偶然ではなかった。あなたの夢がワインのようにのちの世に飲まれるようにという意味であったのだろう。
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追記 。情けないことに、ピエールは死にましたと最初は書いてましたが、まだ生きておりました!
イブ・サンローランと間違えていました。ただ、ある舞台女優が、ピエールの衣装がどうしても気に入らず、サンローランの店で、衣装をかってしまったという事件があり、ピエールは 苦々しく追憶していたようです。ピエールカルダン主催のピエールの作った劇場でのこと。
カルダンの誕生日は1922年7月2日です。うちの母より2歳年上だ。93歳てことか。
追記。アンリ・ルソーが没してからカルダンは生まれました。ですからお友だちではありませんでした。

 

ピエール・カルダン―ファッション、アート、グルメをビジネスにした男

ピエール・カルダン―ファッション、アート、グルメをビジネスにした男