スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

かぐや姫の物語 2013 高畑勲監督

高畑監督のかぐや姫、天才と言われるわけもわかりますね。前にもテレビでか一度見たのに、ブログに載せていなかったのはなぜだったのか。昨夜テレビで放映されてしまった。残念であった。

あの頃は弟が村岡花子の英訳竹取物語を出してきた時で、ワイワイ言っていたのだと思う。

 

主人公や配役の作りが、荒削りなラフスケッチのように描かれていて、かえって新しい感覚になる。

このかぐやという不思議な話を、よく理解した監督の力に感心する。

翁は、監督にそっくりに描かれている。  声優は地井武、嫗の声優は宮本信子で、抱擁力に溢れている。

 

村の子達と、山野を駆け回る姫(翁たちはそう呼んでいた)は、美しく人目をひくようになり、たくさんの高貴な男から求愛される。

難しい問題を出して、ツバメの巣や、火鼠の衣や、金銀の木などを撮ってこさせるが、どの男も失敗して、一人は、高所から落ちて、死んでしまう。

 

悲しみにふける姫であったが、時の帝からプロポーズされる。

帝は、かぐや姫といえど、自分の言う事を聞くだろうと、背後から抱きしめる。

だが突然に姫は消えてしまう。

 

姫は、ご存知のごとくこの世のものではないし、超能力を備えた者であった。

 

月からの迎えが来ると言っても、この世との未練が断ち切れない姫は、悶え苦しむのだった。

帝は、月の使者たちと戦う軍備を備えて、迎え撃つ構えを作った。

 

満月の夜、それはやって来た。

お釈迦様を先頭に、雲の上では優雅な音楽の音色が聞こえる。

兵隊は眠り、矢じりは全て花々へと変わっていく。

誰もその雲を制することはできない。

お釈迦さまは薄物を着ていた。

 

姫を招き入れて、空へ上がって行く。最後の別れを翁と嫗に告げたかぐや姫であった。

あの世とこの世の境を現したような姫の行くところは、時間も空間も超越した遠い遠い世界であろうか。

全ての記憶を失うと言われる雲の上。だがあの方(お釈迦さま)も、この世のことを思うこともないはずなのに、なぜか涙が流れる日もあったとかぐや姫は証言する。

 

まさに監督の遺作となった、立派な作品である。

 

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それでもボクはやっていない 周防正行 監督 2017年

主役の加瀬亮や、弁護士の役所広司などのベテランを使っていたが、なんせ冤罪の映画であり、ドキュメンタリータッチであり、結果は全くハッピーエンドではないため、後味の悪いものになっている。

実際にこう言うことが起こっていると言うことをかんとくはいいたかったのだろう。

 

朝の満員電車で女子高生のお尻を触ったといって、痴漢の疑いがかかった若者の加瀬亮であった。

真犯人は姿もなく卑怯にも隠れているのが、不気味であるし、そんな奴は許せないと思える。

 

色々な証拠や証言もありながら、主人公は有罪になって行く。

監獄の中には色々な人がいて、皆が、チャラいような、ふざけたような、ふてくされたような態度の人ばかりだ。ここで数ヶ月過ごさなければならなかった。

裁判を起こすのも、痴漢犯罪では、ごく珍しいことであった。だが、無罪を訴えても、なかなかうまくいかないのだった。被害者の女子高生も裁判に呼ばれたが、モタモタしていて、決定的な証拠は無論出なかった。

 

公正な裁判官は突如左遷されてしまう。

そして検察や警察の言う通りに動こうとする裁判官がやって来た。

見ていると本当のことかもと思えるのが怖い。

裁判は何度もなされ、家族たちは必死に支えるのだが、無駄足であったのも、気の毒である。

裏側から見れば、冤罪というのは、こう言うことであったのだろう。

 

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苦悩する人間 ビクトール フランクル 山田邦夫 松田美佳訳

ガス室送りになるところだったフランクル先生は、ナチス(国家主義)の収容所で、いろいろな人に会ったそうだ。

同じ精神科医や、社交界で大いに名を馳せた紳士や、哲学者とか。そのようにこの世では 名の知れた有名人たちも、その位に関係なく同じように、ガス室で死んだり、地下の塹壕のような部屋にずらりと並べられて、死を待つ人々と同じ場所を共有した。

それらの人々も他の人々も最終的に人間の尊厳を失わず、人間として死んでいった。

このような究極な苦しみを受けても、なを人間というものは生きている意味を探しているというものらしい。

 

この本はかなり難しくて困ったが、著者の言いたいことは、大体察しがついた。

今までの心理学で人間を推し量ることはいけないということだ。病んだ人の心を直すのには、心理学主義  、生物学主義、社会学主義の尺度で測ってもむだなのである。

 

 

 ここ数世紀の間、と彼は言う。

現代の活動性と、合理性を重視した考えが、世界に蔓延した。

それらが人間の根本なる、死と苦悩を見えなくしている。

「活動的、能動的でないもの」はまさに削除されていく現代である。工場では生産性のないものは消されるだろう。

 

生物主義によると、生きて動くものだけが人間であるという。能動的に動けぬものは、もはや、用無しである。

工作人、というのは、創造価値の絶対化であり、ものを作ることだけが良いものとされるのである。

知性人は、ただ理性的であれかしとして、理性を女神に祭り上げた考えである。

我々は、社会や学校で、常に「理性的であれ」と諭され続けてきたではないか。

 

 

また、彼は、大御所ユングさえも彼の所見は間違っているところあり、といっている。

抵抗できない大きな無意識世界について、そういう考え方についての、疑問を投じでいる。

 

 

自分の人生への責任をいかに具体的にとって行くのかということを患者は考えんくてはならないのだ。誰のために生きているとか、何かのために生きているとか、何かしら生きる意味がなければ、人間は生きていられないのではないか。生きる意味の喪失感ほど辛いものもない。

自分は何にも役に立たないし、生きる意味も持ってはいない。糸の切れた凧のように、ただ風で漂っているだけだ。

そんな気持ちを、スッポコも感じていた時期があった。生き地獄である。

苦しんでいる人は、きっと誰かのために、それとは知らずに苦しんでいるんだ。

スッポコはそういう人はきっと

誰かを助けるために、苦しんでいると思うのである。

 

いくつかの例を出して、治療を紐解いている。

 

また、未来は大変不確実であるが、過去は確実そのものである。色あせた過去などない。あの時心から嬉しかったこと、幸せだったことは 消えることなくあなたと永遠に共にある。美しかった過去を思い出すのはとてもよいことらしい。

認知症の治療にも使われている手法である。

 

妻を亡くしてすっかり元気をなくした男がいたが、フランクルの治療を受けて回復した。

逆に、あなたが死んでいたら妻は苦しんだだろう。あなたが今生きていることは、妻の苦しみをひきうけたことになる意味あるのだと。

 

難病の死にかけた人々も生きる意味を強く噛み締めていた。

 

苦しみを通して、その対価として人間は生きる意味を得るのである。

 

収容所で暮らすことは、どんな十字架を背負うよりも早く心が神に近づくというか、そんなものだ。

 

殺された仲間も生きているものも含め、自分たちをそうさせたナチスの人々を、許す。

許しましょう。許します。そういって死んでいった人々がいるのである。

それに全てが集約されているように思う。

 

ニヒリズムの思想、つまり心理学主義、社会学主義、人間中心主義、といったものは、人間の心とかけ離れたものだといって、フランクルは否定し、論破する。

ただわてにはニヒリズムという言葉がよくわからないのだった。

内容が無意味である、といったことらしいが。

人間はロボットではない、主義に宙吊りにされる存在ではない。価値の押し付けは、人間を否定したものだ、みたいな論理で進んで行く。

読んで理解できる方、読んでみてください。

 

 

苦悩する人間 (フランクル・コレクション)

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実録・ 連合赤軍あさま山荘への道程 2007年。

この事件は、1972年のことであった。その時わては17才の田舎の高校生であった。

毎日が生放送のテレビであさま山荘の事件が中継され続けていた。

 

彼らのリーダは森恒夫永田洋子(ひろこ)の二人。連合とはいろいろな流派のグループが 一緒になってできたからである。

森は強盗してでも資金をためこんだ。永田は銃弾などの武器を持っていた。それらは、なにやら強盗やら、悪い手口で手にいれたものであったらしいが。

この二人が出会って、意気投合して一つの連合軍を作った。他にも東大などの学生運動に関わっていた学生上がりの闘争員が数々入って来た。その他の流派の共産党運動の者たちもいた。

皆20才前後の者たちばかりであったことは衝撃である。社会で働いていた者らも、資金を皆投じて、仲間に入った。

殺されたのも19才から24才、などが多くいたのである。20才にも満たないものも加わっていて、兄とともに16才の少年もくっついて来ていた。

なぜか妊婦や、乳飲み子を連れた女もいた。

 

 

かれらはどの様な家庭の子らであったのだろうか。その研究というかその辺のことは、不明である。

家族をおもんばかってのことであろう。山に入ってしまった我が子を取り返したいと親達も必死ではなかったろうか。大学などに行かせねばよかったと、後悔しただろう。

そして、諦め、佇むしかなかったろう。

 

裸の19才という映画では、死刑囚永山則夫は、当時の学生運動を、覚めた目で見ていた。大学に行き、更に学生運動で日々を過ごすなど、小学校もろくに行っていない彼には、異世界のことであった。

 

連合赤軍は、使われていない山小屋などに住み込み、東京からの追っ手から逃げる生活が始まった。

過激派としてマークされ山での生活は困窮を極めてゆく。山での生活なんて、サバイバル生活である。そこで、ライフルの様な大きな銃の使い方を練習したり、匍匐前進の練習をして戦える部隊になるための訓練を日々積むのであった。本当の戦闘員になるために、山の斜面を走って、訓練を積む彼らであった。

 

彼らは純粋に、平等の世界、競争のない世界、自分の能力を大きく伸ばせる世界、、争いのない平和な世界そのような理想郷を、エルドラドのような理想郷を目指していた。(このような理想社会のことを、ゲーテも物語に書いていた。)それが赤軍の本来の中心思想であった。

森は、演説を始めると止まらずに、朝まで一晩中演説して仲間を苦しめた。

 

永田は、いちいち仲間の挙動を監視していて、少しのほころびも許さなかった。特に、髪が長い女や、綺麗に化粧する女は最初に殺された。関係した男とともに、土に埋めてしまった。

皆が次は自分の番ではなかろうかと疑心暗鬼する中、やはり少しのミスなどで、たくさんの人が殺された。共産党の魂が欠けているというのがその理由であった。

脱走者も数名出た。脱走者は死ぬ覚悟で、傾斜の激しい山中を走ったのだった。

 

理想を持って集まった若者たちが、なぜこのようになってしまったのか。

本当のところはどうだったのか。そのような疑問が次々に生まれてくるのだ。

 

一緒の同志であるとか、思想が一緒だとかは、なぜかもはや、忘れられたようにお互いを、拘束し会う。

 

だがこんなにも簡単にそうなれるものなのか。

その異常さは、何に例えればよいのか。

観ていると、ただ側に存在するものを呪い抹殺するというだけの単純なものにさえみえる。

 

全て、総括と言って、

赤軍の追い求める共産党の魂を奥深く植え付けるためというスローガンのもとに行われて正当化されていく。

幼い若者たちは捕らえられた子犬のように逆らうこともできなかった。

 

苦難は続き、雪山を超えて新しい山小屋を探して歩く日々。警察も迫っていた。

 

森と永田が、さっさと捕まり、残りの5人はヘリコプターに追われて、軽井沢方面のあさま山荘に逃げた。

 

そこで何日も立てこもり、旅館の女将は、結果的に助かったが、まだ、たくさんの殺人が行われたことを世間の人々は、まだ知らなかった。

銃撃戦で死人も出た。母親たちも来て、出てこいと説得した。泣き声のようであった。

遂に捕まった五人であったが、戦慄的恐怖はその後であった。

報道人たちも、信じられないと行った風に、首を降るばかりであった。

 

数十人いた人員の十数名が、リンチにあって命を落としたという報道を聞いて、この人たちは、仲間を殺しあっていたということが明らかになった。リーダーの森は監獄で自殺、

永田は病気を患っていたが、獄中で亡くなった。