スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

天地創造 1966年 ジョンヒューストン主演 監督

米  伊の合作となっている。油の乗った年代になったヒューストンが指揮を取り、アブラハムになっている。

まず、神が天地を作り、人間のオトコを土の中から作ることから始まる。次に女もあらわれる。

アダムとイブだ。知恵の実を食べてエデンを追われる二人。カインとアベルが生まれて、神は何故だかアベルばかり可愛がり嫉妬に狂ったカインは、アベルをころしてしまう。

これらも旧約聖書の順番通りである。その後アダムとイブの子孫の 信仰に生きる義人ノアが船を作って動物を乗せる。ノアには神の声が聞こえ、他の人には聞こえない。人々は船を作るノアをあざけりわらったのだった。

助かったノアの子孫は増えて、一人は王になり、バベルの塔を作り神に対抗しようとしてバチが当たってしまう。

バベルの塔ブリューゲルの絵画にもあるような壮大な細かい造りになって画面に出て来る。

 

その後のあのノアの子孫の一人の信仰深い義人のアブラハムに、老いてからイサクという息子ができる。

神はやっとできた子を生け贄にしろと命令される。アブラハムには、人には聞こえぬ神の声が聞こえるのである。これは彼の信仰の深さゆえの賜物であり、彼は、それゆえに神に見守られているということにもなる。神に守られたなら、この世に恐れなどないだろう。偉大なる栄光ともいえる。

ただイサクは大切なひとり息子であり夫婦が年老いてからできた奇跡的な子であった。

それを生け贄にとは、とても不可能なことであったがアブラハムは、神への忠節を第一に考えて神のみこころに従うことにした。息子を火にかけようとした時、また神の声がして全てが許された。息子は生け贄にならずとも良いことになり、アブラハムは神に褒められて繁栄の未来が与えられたのだった。

 

色々理解しがたい物事が続き また利己的すぎるようにも見えて、困惑してしまうはなしである。

アブラハムは利己的ゆえに子供を捧げても平気だったという意味ではないのだろう。自分だけが神に愛されほめられたいためにやったことでもないのだろう。結局よくわからない。

 

ただノアの話はおとぎ話にようで面白い。

義人というのは節度を守り温厚で、嘘をつかず信仰にあつい人間のことだとおもう。

私も義人のようになりたいと思う。良い心をもった一個人みたいな。

 

エンターテイメントとしてはどうもイマイチ面白みのない映画である。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノスタルジア 1983年 タルコフスキー監督 露 伊共作

主人公の名は、アンドレイで、これはアンドレイ タルコフスキーと同じ名前である。職業は詩人だ。

え?詩人ってどんな事をするの?と戸惑うわたし。こんなあやふやな職業ってやっぱあるのですね。

この映画は大体において詩的映像の連続であり、監督の美的感覚のかたまりを受け取る私たち、と言った具合だ。

ノスタルジアって、何に対してのノスタルジアなのか、よく分からずじまいだった。

最初は目を凝らして見ていたつもりだったが途中で晩御飯の仕度にかかってしまい、ダメだった。

巨大なロウソクの燭台や、マリア様の像などの出て来る場面にも、特別の意味はなく、いや、意味はあるのだろうが、マリア様のスカートの中からたくさんの小鳥が出て来るのとかは、ホドロフスキーもおなじことをやってて、あれって思った。ただ小鳥は「希望」の象徴であるのだろう。

感じ方次第であるのだ。美しい心象風景は、ただ、自然に素直に受け取って、個々で解釈すればいいだけの事だ。

 

詩人アンドレイには、エウジェニアという小難しい名前の女がマネージャーのようについてきていた。

だが中々2人の関係は進展せず、女は苛立っていた。胸をはだけて誘惑して見せるのだが、何故だか彼は一向に心が向かない。

その女マネージャーは、特別に美しく、豊かに波打つ金髪の持ち主であった。スタイルも、歩き方も、ファッションモデルのようにできていた。監督のお気に入りの女であろう。

 

 

旅の途中で、ドミニコという気の変なおじさんに会う。

「ろうそくの火を絶やさずに、水を渡れ」という謎の言葉をアンドレイに言っていた。

これは「世界が救済されるためだ。」とも言っていた。何はともあれ、アンドレイは、それを実行しようと心に決めたのだった。

また、ドミニコは水だらけの廃墟を出て、ローマへと向かった。

変なおじさんは、ローマで演説を始めるつもりだった。

 

彼の演説の内容は、一冊の本がかけるような、東西の哲学を噛み砕いたようなすばらしいものだったのだ!まあ、タルコフスキーの渾身の言葉(遺書)とでも言えそうなものか。

 

 

彼はローマのある広場で、演説を始めて、自ら燃えて死んで行く。

その風景は、ただ美しく、また激しい最後であった。

石の大階段のあるところに、演説を聞きに来た人々が集まる。

その人びとの配置の美しさには、息を飲むものがあった。

ドミニコが燃えている時に。

 

だがこの映画はなにもかもが水だらけであり、霧、雨、雪、雨垂れ、泉、川、池、水溜り、大きな温泉などがでてくる。

全ての根源は「水」であるといっているかのように。

監督の作品ソラリスにも、豊かな川がでてくる。よく、川のほとりで、主人公は想いに沈むのだった。

 

ノスタルジアの最後は、主人公は倒れて死んでしまったようだが、懐かしい子供の頃の故郷が、現れて主人公は自宅の前庭の水溜りの前に坐していたのだった。

 

だがこの最後の部分のバックに居並ぶ長方形の建物はトスカーナのものではないだろうか?

こんな不愉快なまちがいというか、ありえないミスマッチがあるのだろうか?

 

この監督の言わんとするところは、まあまあ、納得できる。汚れきったこの世界に対しての

詩人からの警鐘である。と共に美しい自然や幼少の頃の純な思い出が監督の心を支えていた事が

この映画の核である。

だが世界の足取りは前に前にと、止まらない。無力なものはその下に踏みにじられるということを

言っているのだろうが、人間的な主題である。小手先の進歩が人間を押さえつけ、争いに興じさせている。

タルコフスキーはこの映画を撮り終えて、パリに亡命したのであった。

だが、その三年後には、彼はこの世から立ち去って行く。ノスタルジーには、そのことがわかっていたような趣があり、胸が痛む。

さいごのけしきには  トスカーナの景色がバックにあり、本人は故郷にいるというとても変わった

景色になっている。

 

 

ノスタルジア(字幕版)
 

 

 

 

 

ノルウェイの森 2010年 松山ケンイチ 菊池凛子(リンコ)主演 トラン アン ユン監督(ベトナム)

デスノートのヒットで知られた松山主演の映画だった。長い物語で、読むのも大変そうだったので、

とりあえず映画に頼った。まあまあの出来だった。雰囲気はあっているだろう。

大体、村上春樹の作品では 北欧の都市が出てくるのが定番のようだ。ヘルシンキとか。そういうのだ。

北欧は想像するほど寒くはないようだ。暖流だか暖かい風が吹くそうだ。ただ電車とかの時間は、大まかだとか。留学者から聞いた事がある。

そこはノルウェーではなく 多分、北海道とか長野県の牧草地ではないのだろうか。美しい緑の丘が広がる土地で3人の男女が、もつれて、その中の一人が亡くなると言う悲劇が起こる。

死んだのはキズキ(高良健吾)である。残された渡辺(松山ケンイチ),と直子(菊池凜子)   の二人である。

二人は愛し合うようになるのだが、直子が弱く、統合失調症を発病させる。そして山の奥のサナトリウムに療養しに入院してしまう。そこは、サナトリウムは、深い森の緑の中にあった。大きな杉などの木が四方を巡っていて里山であろうが、何か恐ろしいような暗い大きな山である。

そこに、面会に行って渡辺は、また直子と愛し合うようになる。病院で、メイクラブなんておかしいでしょ。

医者もナースもどこに言っちゃったの?一緒に泊まるって、まるで、ラブホテルのようなサナトリウムである。 鍵も何もなくて、外出できて 森で迷ってもどうやって探すのやら、さっぱり訳がわからなかった。直子が 泣きながら ドンドン森の奥に入っていく場面では ひどいと思った。草の背丈が人間の姿を隠すほど高く、姿を容易に見失ってしまう恐ろしい高原。宮沢賢治の種山ケ原もこんなに草が茂っていたのだろうなあ、と関係のない事を思うスッポコであった。

まず直子という名前がおかしいし、菊池の演技も子供のそれだったし。子供のようにしてエロい事をするというのが目的であったらしい。だんだん病状も進んできた。渡辺に会うたびに病状は悪くなっていく。恋愛は即禁止にしないとヤバイだろう。思った通り彼女はもうこの世とは相容れれない感覚に襲われるようになる。渡辺のケアレスな行動がそれに拍車をかけたのだった。

渡辺は、直子に愛を誓いながら 東京に帰ると恋人がいてしかも直子の年上の友人とも愛し合ったりしてやりたい放題をする男であった。お前は地獄に落ちるぞとおもった。これは村上の分身なのか?

男というものは本来そうした生き物だという定義しようとしたのか。武勇伝か。懺悔か。

あの頃というかあの年頃の若者の生き方というのが大体これに似通ったものなのは理解できるが。

こんなにモテモテなものなのか。性病などうつらないかと心配してあげたよ。

そのモテモテゆえの憂鬱は渡辺の精神を蝕んでもいるようにみえる。

それが若者の青春だと教えてくれた村上。

 

直子も、キズキの後を追ったかのように突然死んでしまう。

いなくなって初めて彼女の存在に揺さぶられる渡辺であったが、あんなに泣くのは なんかおかしいと、違和感を感じるスッポコ。 そこだけが「見せ場」のように描くのはまちがいである。

彼女だけを愛していたわけでもないのに、そして、唯一無二の女ではなかったのに。

恋愛をしたこともないスッポコだが、でも、そんなことはわかるよ。

死んだ後は、東京でまた、シャアシャアと恋を育む渡辺であった。

青春の彷徨を描いた力作は映画でも大体は描かれていた。「ノーウィージャンウッド」である。

「私、もう寝るわ。明日、仕事があるから。」「僕はいいんだ。仕事ないからさ。」なんてたわいない会話の歌。ジョージハリスンのインドシタールの響きが圧巻だね。大成功したビートルズの甘い歌が、なぜか、青春の辛い思い出を呼び起こす。ビートルズ達は、あんなに上手いことやったのに、自分はこんな有様だとしょんぼりするんだ。

 

 

 

 

 

 

 

ダニエルと子供 ヘルマンヘッセ 伝説 寓話より

なんでか、ヘッセを読むことに。いやあ、懐かしいが、ほとんど筋は忘れていたし、たいてい同じ様なお話なので、ヘッセには悪いがだいたい宗教じみた、キチガイの話が多いのだ。きちがいといったのは、尊敬の意味でだよ。そのじんぶつを述べる事は少し難しい。例えばキリストや御釈迦様の実態を述べれない様なものだろう。そんな難しい事に挑戦し続けたヘッセであった。

 

このダニエル神父は人を世俗を嫌ってひとり砂漠に住んでいた。用事がある時だけ、街に出かけた。

みながダニエルの徳の高いことを尊敬していたんだ。

ある日、街に出かけると、裕福な商人がどうしても家にきて欲しいと懇願するのだった。

ダニエルは、人と接する事を極力省こうとしているのに、家にまで入って妻にあって欲しいというではないか。

渋々入ると美しい妻がいて、しかし何故か子供ができないという事であった。

祈って欲しいというので、必ず祈るからと言い納めて帰ろうとしたが、商人はあくまでも食い下がり、妻の頭に手を当てて欲しいなどと勝手な事を言うのだった。

それは、美しい髪の毛だった。うっかりと、われを忘れるダニエル神父。神父の髪はいつもゴワゴワで砂だらけであったし、この様な触り心地は初めての経験であった。

家を出ても、彼女の事が忘れられなくなっていた。それで、街に近寄らぬ様にとても用心してくらした。気の毒ななダニエルであった。

時を置いてある日また街に行ったのだが、なんと、あの夫婦に子供ができたと言う話だった。

お祝いを述べようと商人の住む家に行ったのだがダニエルをみなが憎しみを持って睨みつけた。

この子は不倫妻とダニエルの子だろうと言う事であった。

驚いたダニエル神父は、みなを見渡してから、生後間もない赤ん坊に向かって聞いた。

「この子の父親は誰だ。私か、それともこの商人のほうか?」

すると、乳飲み子は、商人を指して、「この人が私の父親だ」とはっきりと言ったのだった。

乳飲み子が語った!この奇跡は町中に報じられた。

 

赤ん坊が喋ると言うのは、あり得る話だ。とスッポコは合点した。

まったくこの世には不思議な話があるものだ。

 

 

ヘルマン・ヘッセ全集〈11〉子どもの心、クラインとワーグナー、クリングゾルの最後の夏、伝説・寓話・たとえ話

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