スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

アデルの恋の物語 1975年 トリュフォー監督

これは恋のために気が狂って行く女の記録である。だがこの娘には重要な後ろ盾が控えている。

いわゆるユーゴーという文豪の娘である。

この女はアデルといったが知り合いもツテもないアメリカに単身でイギリスガーンジー島から恋人を追いかけて来たのである。

   「   この話は実際あったことであり、真実である。」とまたまた監督はつぶやくのである。

これはトリュフォーのよく使う手である。

 

なぜこの女がどんどんおかしくなって行くのかは、多分育った環境に原因があるのである。

この女、元を正せば、かのフランスの文豪ビクトル ユーゴーの次女である。 ユーゴーはフランスの政治から逃れて、イギリスの南の海のガーンジー島に逃亡していたのだ。

ユーゴーの娘である事を隠しながらアメリカで生活している。いつも本屋から紙をたくさん買っては、下宿で、じぶんの恋心を書きまくる毎日。

仕送をねだっては、お父様へ手紙を出す。結局、働くことも思いつかぬし、異国にいても、超お嬢様のままで、恋ばかり夢見て実家のお金をアテにしているなんて、スッポコそっくりだわ?

  さて追いかけられているイケメン美形のピンソン大尉は大変迷惑していて、彼女のストーカーのような行動にますます不気味さを感じていた。女は結婚をお金で迫ったが、ピンソンに拒絶される。

ただの彼女の片思いであったのだが、彼女の思いは、業火のように燃えており、山でも海でも、何処にいても彼女は追いかけて来て、ピンソンの目の前に表れては、愛の告白を一人芝居のように告白するのであった。

男は、親元に帰るように何度も諭すのだが、全く聞く耳もたず、自分の気持ちだけを押し付けるのであるから、大変である。ピンソンという名前はおぼえにくく苦労した。

 

アデルは 

要するにユーゴーの娘であったのだ。その意味でこれは恐ろしい話なのである。

ちやほやされ、自分の思いは全て相手に通じて希望が叶うと、思い込んでいるのだ。

何をしてもユーゴーの名のおかげで許される。

まるでスッポコの心と同じだ?

これはある意味、恐ろしい事であろうに。

 

彼女はそういう気持ちでいることが楽しかったし、それが生きることであった。血が動くのである。

いい塩梅にね。

ピンソン大尉と結婚したと両親に嘘の手紙も出した。新居のお金をねだった。

両親は、娘の浅はかな行動を心配し、親元にかえってきてほしいと願った。

彼女は、その間もずっと紙に何かを書き続けてけていた。

そしてとうとう、ピンソンの部隊を追ってバルバドス島にまで行くのだった。

バルバス島というのは、南の島でしょう。ピンソンは、この島で、アデルを見かけ、心底ゾッとする。

まさかこんな原住民の住む島にまで追ってくるとは、と娘の強い信念に圧倒されたて驚くのだった。

娘は原住民のおばさんに世話をされて、医者にもみてもらっていた。アデルは、島に着いてから、高熱を出して倒れいく日も看病してもらっていたのだった。

 

ピンソンは、道でアデルと出会った。近づいて来るアデル。緊張して構えるピンソン。まるで真昼の決闘状態だ。

 

次の瞬間、アデルは、ピンソンに気がつきもせずに、通り過ぎた。

通り過ぎたのだった。彼女は真数具に前だけをみていた。何かをぶつぶつと呟きながら…!

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舟を編む 2013年 松田龍平主演

紙の辞書の話。どこかの出版社に勤める松田はちょっと冴えない社員だった。営業とかはいつもダメダメで、彼には向いていなかった。

そんな彼を見て、辞書つくりの会社が引き抜いていった。彼のような人間はきっと辞書つくりのような地味な仕事に向いているはずだと見抜く。

辞書作りは、とても地味で、コツコツと言葉を何万何十万と集めていく仕事である。まさにあの紙の文字はどうやって作られたものであった。何年もかかる仕事、何十年もかかつ仕事であった。

それを飽きずに、ずっと引きずっていく目に見えぬエ ネルギーが、必要とされる仕事であった。

これはまさに、松田ににつかわしい仕事であった。

彼はオンボロの安下宿に住んでいて、確かに、ひと時代前には、このような古い物件が多数あったものだ。懐かしさをかんじるであろう。時代は1995年とあってなるほどとおもう。

その下宿に大家の孫娘がやってきて住むことになり、彼の生活は一変する。娘役は、自称?美人の宮崎あおいだ。彼女に恋するあまり仕事が手につかず、仲間にも、恋してることがバレるほどだった。

我が恋は色に出にけりであった。娘は女だてらに、板前の仕事をしており、松田にも色々作ってくれるようになる。宮崎あおいが、台所で 料理!?。しかし、女優はなんでもこなさねばならぬのだ。結構サマになっていた(クスクス)。

そして、松田の会社の編集長の加藤剛は、なんかづごいじしょをつくることを明言するのだった。

「大渡海」ダイトカイ というトンチンカンな名前の辞書であった。

すでに電子辞書も多数出ているじだいであった。

今更新しい辞書など必要ないのではないかという声が多数ある中、あえて辞書を作り出そうとする加藤編集長であった。

これには、松田が中心になって進めて行くことになった。長い長い月日のかかる仕事であった。

大手の出版社を抑えたりは営業の人がやってくれた。

あとはもう、アリのように一つ一つをっやっていくだけである。やらなければ、辞書は編めないのである。

10年が経ち、すでに2005年になっていた。松田と宮崎も結婚してお互いの仕事に精を出している様子だ。

やっとの事で、辞書の目鼻がたってきていた。そしてとうとう最後の仕上げにかかり、大勢のボランティアが泊りがけでワッショイワッショイと、やり上げて行ったのだった。

松田は、言語学を専攻していたので 後輩たちがきてくれていた。自分たちの勉強にもなりことなのでと。

そんな事で、出版に漕ぎ着け、世代を超えた立派な辞書が出来上がった。編集長の加藤は既に、亡くなっていた。

 

 

まさかとはおもったが、やはり辞書はたくさんの人の手による沢山の時間を使った手作りの品物であったのだ。

まさに言語の文字を編むとでもいうべきか。それを舟に例えたのだろう。

スッポコは、特に紙の辞書に愛着があって、いまでもお気に入りの英語の辞書を大切にして、布袋に入れて、枕元とか テレビの横とか車の中とかにも置いてるんだ。バカみたいと思われるでしょうがね、何かの時の、武器や、エアバッグにもなるかもよ。

 

 

 

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危険なプロット 2012年 仏映画

現実と幻想とが入り混じり訳がわからない展開になり、終わりに近づくにつれだんだん切れ味が悪くなっていくのが難点だ。

クロードという生徒が、文学的な作文を国語の先生にみとめられ作家として育てていこうと、先生は思うのだった。この先生は、何というか、若い時、本を出した経験のある文学的な先生だった。

でもなんだか先生らしくなくて嫌だ。コメディアンの要素を持った俳優にみえる。落ち着いた感じだが、どこか焦った演技である。あまり質が良くないと思う。

まあ雑に作った作品なので、どうでも良いが、

主役の青年がとにかくイケメンすぎて目がそこにばかり行くので、ちょっと待って、と言いたい。

イケメンならなんでもよくなるかといえば、そうではないことがよくわかる映画だ。

イケメンがジャマして映画が味気ないものになっている。監督は、この青年に入れあげている。

校庭に座っているイケメンの座り方は、長足イケメン座りであった。

この監督で大丈夫だろうか?

 

イケメン青年は、数学にも強く、バスケにも強いことがわかってくる。まず、そんな才能だらけの人間がいるのか。

彼には障害者の父親がいて、母はいなかった。それ故、普通の家庭というものに憧れと興味を持っていて、普通の平凡な高校生の普通の家庭に友達家庭教師として入り込む。数学を教えるという名目だ。

そこでは普通のパパとママがいて、平凡な生活を送っていた。

その様子を作品にして書いて行くクロードであった。リアルの家庭をイマジネーションを加えて書き上げて行く。それは、かの文学先生を惹きつけて止まないのだった。毎日のように、出来上がった文章を先生に添削してもらうクロードであった。

友人生徒はあまりに平凡であったが、時々車を燃やしたり、物を壊したい衝動がわいてくるんだと

クロードに告白するのだった。なるほどなあと思って見ていると、どうもこれは本当のことではなく、創作なのかもしれなかった。

 

そうしている間にも、クロードは、ますますこの家庭に深く食い込んで行き、ここの奥さんとできてしまう。それを見た友人生徒は、首を吊ってしまう。

だがこれは、ただのクロードの創作であり、事実はなさそうだった。

このあたりから、創作と現実が入り混ざり真実が見えなくなって行く。

 

監督よ、お前のプロットが一番やばいわ。

 

最後にはイケメン青年は、先生の奥さんにまで手を出してしまう。

かの文学先生はクロードの作品にのために生徒のカンニング問題に関係してしまい、学校を首になってしまう。これは本当。

とにかく訳がわからないというより、なぜか後味が良くないものを食べてしまった感じであった。

ああ、期待したぶんガタ落ちしました。

 

 

 

 

 

 

 

ピアニストを撃て 仏映画 1960年制作

最初の滑り出しが美しいピアノの内部の撮影に、あっと驚くだろう。トリュフォー監督の軽快な作品である。天才ピアニストに、フランスの誇る、かのシャルルアズプナブールを起用している。アズナブールという長ったらしい、勿体ぶった響きが嫌いで、スッポコはどんな芸人かは知らないのだが、なぜか名前は知っているのだ。有名な人らしい。

ちょっとかっこいい中年のおじさんだった。ピアノは、彼自身が弾いているんだと思えるところが、いいのである。何と言っても芸術家のアズナブールであるからだ。

 

アズナブールにはかわいい童顔の恋人がいて 、カフェのウェイトレスをしていた。ある日、ある有力なプロモーターの男に言い寄られて、男のものになったら、アズナブールを売り出してやると言われる。一介の貧しいピアノマンだったアズナはそのあと直ぐに、大舞台でピアノ演奏会が開け、新聞に乗るほどの有名人となる。彼は幼げな恋人が、プロデューサーだかプロモーターだかに体を売ったことを知らないでいた。恋人は、自分のしたことを悲しみ、後悔し、罪を感じて日に日に衰弱していったのだった。「私は悪い事をした。私は汚れた雑巾と同じだ。」そう言って彼女は身を投げて死んでしまう。

 

その後の彼は、名声を捨てて、掃除夫としてある店で働くのだった。誰も彼のことを知らない店で。

ある日、埃をかぶったピアノに向かい凄腕を振るうアズナブール。すぐに人気者になりその店の専属ピアノマンとなった。そしてまたかわい子ちゃんと知り合いになり、恋人同士になる。だが店の店長に嫉妬されて、首を絞められて、殺されそうになる。落ちているナイフを拾い、店長を刺してしまうヤクザなアズナブールさん。ダメダメである。警察に追われて逃げるのだが、雪の厚く降った山小屋まで恋人と逃げるのだった。

だが、そこでまたその新しい恋人は、銃で打たれて、死んでしまう。

二度までも女を死なせる極道な男であった。

ところで、アズナブールには極道の兄弟がいた。そして犯罪をおかし、山小屋に逃げていた。

そこに、アズナブールも逃げてきたのだった。

この兄弟の顔は悪事を企む怠け者という顔であって、どうしようもなく倦怠と嫌気を誘う顔である。これもトリュフォーの演出である。彼は悪者の顔の描き方がとてもうまいのだ。いやフランス映画は、とてもさりげなく悪者を的確に描くので、その部分では洗練されているといえる。

この兄弟はならず者だったが、アズナブールだけは早くから音楽の才能があり、お金持ちに預けられて、音楽を学んだのだった。しかし、血は争えなかったというべきか。

アズナブールも殺人をおかしていまったのだった。

さてその後彼はどうなったのか?

それはいいのだが、説明に疲れるから嫌になっちゃう。

小さい弟も養っているが、、こいつもなかなかのミュージックキャラだ。この存在が、存在意味不明なんだ。ただすごい音楽オタクそうである。ただ面白いから子役で出したのだと言える。 

 

アズナブールは、何事もなかったかの様に、店に帰り、ポンポンとピアノを弾いた。

美しい音色のピアノを。

学習しない男の話なのか。主題もピンボケではあるが、楽しめればそれで良いという趣向だろう。

見た目が、アズナブールとトリュフォーは、よく似ている。双子かとおもえるほどに。二人とも小柄で、すこし頭でっかちで、神経質な芸術家である。監督は、音楽にも造詣が深く彼の映画の音楽はすてきなものがおおい。自分の代わりに、本当にピアノを弾けるアズナブールを主役にしたかったのだ。

 

一緒に入っていた「あこがれ」の方が、小品ではあるが作品としては優れていると思う。あこがれはは、監督の処女作であるそうな。