スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

the corpse bride 2005年 ティム バートン監督

ある魚屋の息子のビクターは気が弱い青年であった。この声は、ジョニーデップがやっています。

年ごろになっていたので、親は結婚の相手を探していた。そこで見つけたのは、ある大金持ちの家の娘で、とても可愛い娘であった。直ぐにでも結婚式を挙げてしまおうと焦りまくる親達であった。お互いに釣った魚を逃すまいというわけだ。

お金持ちの家は、屋敷だけは立派だったが、じつはもうお金はからっきし失くなっていたのだ。

それを知らないビクターの親達は、お金に目が眩んでいた。

結婚式での誓いの言葉を、ビクターは何度も間違えて、結婚式は中止。郊外を彷徨ううちに、あるところへ着く。そこは地下の死者の国であった。

そこでは昔夫に殺された女が幸せな結婚願望にとりつかれて男を待っていた。気の弱いビクターは直ぐに気に入られて、女に所望される。

コープスとは死体のことであり、長く墓にいたので、ゾンビ化している女であった。それでも男が欲しいのか、ずっとビクターに取り付き離れてくれないのだった。ビクターは結婚を中止したが金持ちの娘のビクトリアの可憐なすがたがわすれられないでいた。本来なら、結婚していたのに、自分のせいで、全てを台無しにしたことを思い出す。こんな死体と、結婚するにはビクターもコープスにならねばならなかった!追いかけたり逃げたりで、骸骨達の大合唱。

外国の人って、ホント骸骨💀とか、ゾンビとかが大好きなんだかねえ。日本人の感覚とは少し違うんだと思う。日本の幽霊は足もないし、風のように追いかけてくるので逃げようもない。何より心を見透かされているようなところが怖い。ただフランケンシュタインだけはこわすぎるとおもう。がいこくのトップモンスターだと思うが。映画ではフランケンシュタインはとても優しい奴なんだけどね。

 

このコープスブライドは、期待を裏切ることなく、思った通り面白くない。

画面が白黒っぽくて、誰が誰だか分かりにくいし髪型などを目でなぞって、これは誰々と判別してみていた。

コープスは特別怖くもないし、説明も何もありませんです。

ただひとつだけ良いとおもったのは、冒頭の部分であり、魚をさばく魚屋の両親の暮らしぶり、これが

なんか良かったなあ。

 

 

 

 

悪魔の陽の下に 1987 モーリス ピアラ監督 フランス

キリスト教の厳しい教義を信奉し、牧師として生きる一人の男の話である。

これはかなり不思議な感じの映画であった。

なぜなら一人でいる時、ふと自分はどういう人間で何のために生きているのか、などと、つい考えてしまうような戸惑いのひと時。そのようなかんじがしたのです。自分の潜在意識に触れようとでもするような静かな時間、そんな気がする映画であった。

神父は屈強な身体を持っていて、多分自分でも持て余すほどの精力がありそうな男である。どこかピエール瀧ににている。ところがこの男は、ドMで、いつも自分で自分に鞭を当てて血を流していた。

キリストが刑場に行くときに鞭打たれたように。

彼は人生について真摯に考えている。神についても、真剣に向き合う事を信仰の第一義としている。

あまりにも直接的で、息が詰まりそうである。指導する年上の牧師も、もう少し休んだらと、忠告するばかりであった。

ある日旅の途中で悪魔に出会い、悪魔は牧師の体を求めてきた。悪魔の誘惑を退けて、悪魔に勝った、と喜んだ。

その後、どういうわけか不思議な力を授かった。それは人の心が読めるというものだった。

 

ある一人の若い売春婦はまだ十代そこそこの感じで、どこかの公爵の女になっていた。他にも医者ともできていた。そして なぜか理由もハッキリしないまま公爵を銃でころしてしまう。

驚いて遠くに逃げる女、とても怯えて、罪の重圧に苦しむのだった。

その辺の感じが、あまり飾らずに、役者のアップとかもなしで、ただ淡々と現実の生活通りに映しだされる。大げささがない分、本当の事のように見えるのである。

これが、この監督の映画の力であろう。

この少女は、自殺してしまう。 この少女を救おうとするが、救えなかった。?

 

この牧師の噂を聞いたある一家が、死んだ息子を見て欲しい、いや、子供を生き返らせてほしいと頼んできた。

いやむちゃくちゃだろう。しかし彼は生き返らせた。

このようなことが重なって、彼は聖者だとみなされるようになり、かれはますます信仰を厚くしようと

自分に奇跡を行わせてくれた神に恩返しをしようと必死になっていく。

仲間の人々は彼のあまりの苦行に心配していた。命を落とすような苦行に。

彼は狂気の沙汰であった。自分がキリストのように生きることは狂気の沙汰であった。

彼はある日懺悔室で婦人の懺悔を聞きながら、息を引き取った。

先輩の牧師が静かに目を閉じてやるのだった。

 

 

 

 

 

 

ルパン三世(2014) 信長協奏曲(2016) 小栗旬主演

 

 


どちらも、小栗旬のイケイケ映画であるが、どちらが面白いかと聞かれても優劣のつかないような

映画であった。観客の心をぎゅっと掴むところがなくただ漠然とシュクシュクと映画のマニュアル通りに進んで行くだけなのである。もう小栗旬もかっこいいんだか悪いんだかよく分からない。

綾野扮する剣の達人えっと誰だっけ、次元じゃあないし、そいつが、味噌汁すすりすぎて着物や袴の上にザアザアこぼしているシーンだけが面白いと思った。

協奏曲は、バカのスッポコには意味不明というか、やっぱバカには分からないような複雑怪奇な人違いの作品で、なぜこんなふうに仕込んだのかはなぞがのこる。一人の男が信長の生きた時代にワープして信長とおもわれて替え玉のような具合になるが、秀吉に命を狙われて殺されそうになる。

本物の信長は、光秀にすり替わって、偽信長の家臣として振る舞うが、日に日に家臣に慕われて人気者になる偽信長におどろきしっとする。しかし、本者は秀吉に八つ裂きにされるほど刺されて死んでしまう。

秀吉は偽信長も許せず自分の天下のためにころそうとするのである。なんか利己的すぎて悲しいなぁ。

 

柴咲コウがマドンナ役で、なんか漫画のように思えて変であった。小栗旬の相手役にはどんな女優が似合うのか、よくよく考えて、選考してほしい。個性強すぎる女はダメじゃ。おとなしくて色白のタユタユとした源氏物語のような女でないとな。

 

まあ、この映画は急いで作ったような感じなのである。どちらもスピード感のある映画だからかなあ。

 

柴咲は今、大河の「井伊直虎」で忙しい。スッポコはこのドラマを毎週みる予定だ。

スッポコの人生に重ねてね。って今昔混合になっちゃうけど。

でも本当にこの大河ドラマうまく進むんでしょうかね。ヨスマミノタ。

 

 

 

 

中原中也 1907(明治40)ー1937(昭和12ねん)を生きた詩人

今更 中也って言われてもね。とちょっとふてくされてるスッポコである。 中也の詩は、没後も人気があって、良きにつけ悪しきにつけ読まれているわけだ。ケッ、読みたければ読めばいいさ。

つまり理解できるかどうかは、読む人の勝手であるし、詩の方から読者を選びにやって来る、そんな気がするのはわたしだけでしょうか。

100分名著では、中也は詩への入り口としてとっつきやすいといっていた。偉い人が言うのだから本当だろうが、それならスッポコは入り口しか知らない初心者というわけである。いや偉い人が言うのだから本当だろうが、ちょっとショックでもある。太宰治の娘の太田治子が言っていたように思う。

太田の父は、あの有名な太宰治であり、中也は太宰とも交際があったらしい。なので、まあいいだろう。

詩自体が詩人の生命を持ち 、一緒にお茶を飲む 、いっしょに道をそぞろ歩きをする。いっしょに雨の音を聞くといったように、詩は生きていて読者に寄り添い 読者の限りない孤独をいやすのである。孤独を癒してくれるので読者は有り難がるのだ。何度も何度も読み返すのだ。自分の血となり肉となるまでも。これはまさしく私の血と肉のことですが。(ウフフフ)

キリストが、このパンは我が肉であり、このぶどう酒は我が血である。と言ったとあるが、それに引っ掛けるわけでもないが。中也の家は山口県で、キリスト教であった。家は代々医者であり裕福であった。

母のフクは跡取だったので 軍医の男が婿に来て、五人の男の子を産んだ。

母のフクは、まず間違いのない血筋からこの中原家に養女として入った人だ。中原は代々の医者の家であった。フクはとても長生きしたが、婿の父親の方は、中也をとても可愛がりながら中也が12歳の時に亡くなったとある。

中也はその長男で子供の頃は神童とよばれ抜群に教養が抜きん出ていた。古い書物も読み込んでいただろう。だが、その後は文学に翻弄され一家のつら汚しとして迷惑をかけ続けることになる。故郷の家のものは外にも出にくい状態にまで追い込まれた。

東京に出た彼はその後、文壇とも一種独特の関わり方をしてゆく。田舎者でもあったのだし、プライドも凄かったのだろう。

彼は一生仕事をせずに過ごした。徹底したニート生活を送る。結婚後も知人の勧めるNHKの仕事も断っている。生活費はいつも母に無心した。

しかし彼のような詩を作ろうとするならば、ゲスな世間とは手を繋がないほうがよいだろう。

初版の「山羊の歌」の表紙文字は高村光太郎にたのみ、書いてもらったそうだ。

いや、高村も偏屈の変わり者で世俗を絶っているから、これはうなづけるし、よかった。

だが彼の詩集はあまり売れなかった。困ってしまうし、山口の家の方からも 色々文句がでるようになった。いつ、文学者としての芽がでるのかと催促されたのだろう。金を出しているのは家のものたちだから。本当に無駄な馬鹿げた人生を送っていると故郷の人々はおもったのだろう。

この頃の中也の心境は我々も忍び難い。

 

考えてみれば、芥川賞であっても、とるのは至難ののわざである。中也が文壇で認められるのもとても難しい関所が沢山あったのだ。彼も何とかそれに向ってそれらを突破すべく恐ろしい努力をしたであろうと思うのである。彼の詩は単純で 短いけれどね。

 

だが元々、自分の身を消して世の中を観察して隣人のために作って来た詩である。世間の評価どころではないものも含まれでいる、と思うのだが。

我々は彼の詩により、試作の努力により、一人の詩人と近付きになる。

それが元になり、いくつもの芽が出て、花が咲く。

スッポコの 中也に対する思い入れは凄いもんなんですよ。角川の中也全集は、まだ本箱の片隅で、じっとこちらを見ていてくれる。

 

彼は行間や言葉の並びにとても気を使った人だ。今までも色々な研究がされているらしいが、

まあ色々な人が研究をしても尚、捕まえられない彼の詩の言葉たちである。

中也は生前 そのことを予感し, よく分かっていたのだろう。

「俺は人が言うように放蕩息子ではない.。本当は1番の親孝行息子なんだ。」

 

弟が、なぜ恋人の長谷川泰子のことを書かないのか、と言うのですが、彼女は、スッポコの恋敵であるし、捻じ曲がった失恋をした中也が可哀想すぎて、書けませんわなあ。