スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

やっぱ話題はマイナンバーカード

最近このカードのアレが迫って来ていて、なにやらこわいことになりどうだ。私としては、ただもう面倒臭いのでやめて欲しいと言う気持ちだ。Tシャツを着て、着物をくるような面倒臭さを感じるんだよ。

まあ、着物というかユカタぐらいかも。最近ゆかたなんて来てないけどさ。でもあれって日本の知恵だよね。嫌いじゃないわ。なんか盗難に遭いにくい形状だもの。

カードの暗証番号もさることながら、長い番号は携帯だけで十分だ。まず覚えられないし、老人の頭ではムリですね。それに悪用されてしまうよ、きっと。まあ、なくしたり、盗難にあった場合、とてもヤバいだろう。私はすでに盗難に遭ってしまったが!この事でこのブログを書く事にしたんだが。ただ、こんな事書きたくもないよ、わざわざ。おもしろくも、楽しくもないもの。誰かさんのためにもさ。

おもえば、前は、気楽であったよ。ただ操縦不可能な夫に目くじら立ててさえいればよかったのだから。

思えば、

予想的にカードはただただ悪用されて、多くの人が現実的に被害を被るだろう。この仮想通貨のようなカードにおどらされて、コロナワクチンよりも大きな害を作ってゆくのではないか。そこには、破滅、死、犯罪、裏切り、とかのにんげんにとって不利益な事ばかりが増えて行き、ソドムモゴラ化するのは将来的に近いものがある。どういうことかというと、ナチス化のように、徒党を組んだ者たちが、殺人も当たり前のように行う社会になる序章ではないのか。高学歴、高教養、高額所持者などとは無関係な、新しい何物かが、既に生まれていて、それらが作用してそれらを主軸に社会が成り立つようになるのだ。ただ、それ自体は

弱いのだが、突然変異のように彼等は変容してゆくかもしれないーただそれも一部の人々にとっては予想済みであるが。

何か大きな事件とかあった時に、ニュース報道しのまま信じずに、自分の位置で自分で考えるという、独断的な方法で、理性も顧みずなるたけ真実に近いものをという気持ちでやっている。ただ、弱者の断末魔とも見えるかもしれないが。

 

 

今日のご飯はマジ

朝からだるくて、ツイツイ食パンとコーヒーと紅茶ですます。夫にもパンを食べさせる。ピーナツバターーを塗って、キューリやトマトの薄切りを乗せてみたら、食べてくれたー彼も紅茶だ。バナナがあったので助かった。最近、お豆を食べていないな、と言うわけで、赤豆の砂糖煮を食べた。やっぱ豆は美味いわ。買ったやつだけどね。

本当は大豆を食べたかったんだけど、なかなか順番が回ってこない。

昨晩買ったの残り酢鳥の中に水から上げたレタスを混ぜ込んで、美味しいタレと共にご飯をかっこんだ。

餃子も焼いてたし、青菜の味噌汁も作ったし、赤オニオンのスライスもある。今日は鳥パーティーだ。

鳥肉は苦手だけど、まあ、たまにはいいさ。午後は急いで、生姜の線切り冷凍を昆布とさとうとしょうゆで煮ておいた。早くクルクミンをたべて、元気にならないと。と言うか生姜がうまいというだけのこと。

夜は、買っておいたイワシの煮付けと、また青菜の味噌スープー豆腐も入れたかったが、腐りやすいのと、勿体無いのとで、豆腐はやめて明日の味噌汁に入れようと思った。汁物は味噌を溶かすのが面倒で2回分作り置きにしているため、豆腐を入れるのは二回目の時にする。

スープにはだいたい、季節の春菊とかミツバとか、サンショの木の芽とか入れてアクセントのあるものにする。

 

 

今日は、なにも豪華なものはなくて、卵さえも焼かなかったーよく炒り卵野菜入りを作っていたが、卵も毎日となると、なんか体が重くなる。

 

そんなこんなで、全く豪華さの欠けた今日の食事でした。いつもはもっとメリハリあるのにね。

春になって最近なんかやる気出ないのよね、やっぱ春だから。

ダラダラとした感じのお婆さんおばさんの生活が嫌なので、何かしていないと生きてる感がなくなって、やろうと思うんだけど、なぜか横滑りばかりしてしまう今日この頃、ヤバいでしょ。

 

 

 

ブッダと悪魔との対話  中村元  訳

壮大な仕組みのインド叙事詩のように。まず、よく訳せたなと思うこと。日本人にもわかるように訳すのは大変な事だっっろうことは分かりるね。

まず、出演者は、梵天という、いつまでも若いという天界の神々の主、ブッダ、多くの尼さん、バラモンという修業者たちが主である。彼らはお互いに詩を交わし合って話すのである。ほらね、叙事詩っぽいでしょ。

ところが、ここにもう一人の悪神阿修羅が出てきて、ブッダを愚弄しようと策を練るのである。

とにかく何を使ってでもブッダの心を破滅させようと必死である。これは現代でも過激で無意味ないじめなどにも見られる事実である。恐ろしい言葉を使って、心に破壊的なダメージを負わせようとしている。

お前は、堕ちるだろう!破滅なんだよ、と宣言する阿修羅である。でも、ブッダはほぼ相手にもならいと、追っ払うのが常であった。アシュラはとてもしつこくて、この作品中でも、ブッダに常に戦いを挑みあらゆる地獄の手管で、彼を落とそうとすとするのである。ただお互いに詩を詠んでいただけではないのだ。実際は、命を狙われていたというのがあったとおもわれる。

ブッダといえども、ノンビリ、瞑想に耽ってばかりではいられなかった時代である。野蛮な一派が、彼を滅ぼそうと狙っていたのだから、命がいくつあっても間に合わないさ。

阿修羅像は有名であるが、手が数本もある悪魔神である。

それを思っても、ブッダの人生は困難色に染まっている。その中で、平和、安寧を解くのは容易なことではなかっただろう。そう思うと、何故でも、感慨深いなあ。

彼とても、たまに病気をしたりもするようで、弟子たちが心配して村からクスリや、ハチミツなど求めている。

彼は生身の人間であったのだ、と今更驚くスッポコであった。   :敬具。

 

追記/梵天は、若く美しく神々をまとめる頂点のいちにいるのだが、生きているときから、多くの修行をした報いでもあった。その中で特に、忍耐についての言葉があった。全ての美徳のうちで最も最高のものは忍耐というものであるとー耐える事、徳の無いものは無力で人生耐え続けるが、絶えないよりは良いのだと言っている。ホンマカイナ!

 

 

 




今日は良い天気で

今日は良い天気だが、あれほどお客を呼んだ桜も終わりに近い。

郷土のお祭りがあるのだが、ほとんど高齢者ばかりにて、重いお神輿や、山車を引く人も少なくなっている。子供の頃から親しんできた稀代の祭りである。自分たちの祭りこそ、一番すばらしいとおもうのは、なぜだろう。あの太鼓の音、横笛の響きは聴いた人たちに、忘れ去られた時を思い出させる。

泥に塗れた田植えのことや、父母の手伝いをした畑での駆けっこなどなど。土の匂いが切なくも甘く春風が吹き渡る夜。そう夜の祭りである。実は祭りは昼頃から始まるのだが、夕方にかけてだんだんと暗くなり、午後10時、11時と時を重ねて夜中となってクライマックスを迎える。真夜中を廻ってもまだ続き、御神事を終えてっやっとふける。既に午前2時だ。子供たちの親は初めから終わるまでずっと子供に付き添う。

山車の上で寝ている子供達もいる。ぐずって駄々こねる子供らもいる。長丁場にたえられないのだ。

山車の形は特別であって、何かどこにもないような山車である気がする。素朴な二階建てになっていて、綺麗な塗り物の厚みのある屋根は反り返っている。飾り物以外は全て木製の作りである。ゴロ(タイア)

も、全て円形の木製のものだ。屋台は毎度毎度 全てのパーツを解体しては組み立てるようにできている。

高さは大人2人分と半分ちょっとある。屋根にも乗って進行方向を知らせる。

街の道はどこもかしこも車出入り禁止となって、自転車も走られぬ決まりである。大きな山車は田舎の道を幅いっぱいに塞いでしまうし、動く神輿や榊は狂ったように動き、突飛な事故になる事があり、危険なのだ。

獅子と猩々がピョンピョン高く飛び跳ねるのでとても怖くて近寄れない。彼らは神の化身だとみなされているのだろう。

しかし一番の主役は数人の多分多い時は7、8人の若者らを乗せたおおきな山車である。それにしても何故こんなに大きいのか疑問もあるほどだ。ー何のために、誰のために、何を運ぶために?と色々疑問も湧いてくる。昔お城のお殿様がこれが良い、とおっしゃったのか。ほぼ家の形の山車をヨイショヨイショと何時間も引ぱるのだ。

皆がお酒に酔っているため、なんかヨレヨレになって来る。それでも目的地まで引いて行って更にそれぞれの区域にまた持ち帰り、やっとのことで終り、解散となる。役の人はまだ終われないけれど。

とまあ、大雑把に述べたけれど、

故郷を出た人々も、何故かこの祭りほど心を打つ祭りはないと、言い張る。

この地方がすごい田舎で、街に出るのにも苦労があり、学校に通ったりお勤めに出るのにも苦労が絶えないといった田舎であるゆえの不思議な落差が生んだ祈願の気持ちーその幻なのだろうか。